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カテゴリ:展示解説・フロアーレクチャー( 9 )

 標記展覧会は、事前に調べて展示解説が実施される日に見学した。

 貴重な話をうかがったが、すぐにまとめなかったため、詳細は記憶が定かでなくなってしまった。

 覚え間違いもあると思うが、分かる範囲で記したい。担当されたのは若い女性研究員の方だった。


●役者絵は、それまでもあったが、鳥居清信が元禄歌舞伎の荒事を描いたことで変化がもたらされた。「瓢箪足・蚯蚓描」を大成し、看板なども描いている。


●勝川派の作品は写実的で、役者の個性も表現されています。


●【絵本舞台扇 初代中村仲蔵】は人気を博しました。


●【仮名手本忠臣蔵 七段目】(勝川春潮)は、いわゆる「柱絵」です。


●歌川豊国は立絵を多く描きました。人体表現や色彩・衣装や柄の表現に優れ、役者絵形式の確立し、後進教育のシステムも確立しました。


●「忠臣蔵五段目」を描いた4枚の作品は、登場人物を少なくして雨の表現を強めています。


●【初代坂東しうかの近江の小ふじ・二代目尾上菊治郎の八幡屋お三・十二代目市村左衛門の曽我十郎祐成】(国貞)は、軸装がされている希少な作品です。


●歌川国貞は世俗に受け入れやすい美人画を描きました。歌川国芳は、擬人化された愉快で面白い作品を多数描きました。


●歌舞伎の舞台の演出は、浮世絵や彫りの技術の向上に大きく貢献しました。


●展示されている【大江山酒呑童子退治の図】(国芳)は初版で、後刷りは着物の柄がありません。


●当時の浮世絵は、紅や藍が原材料です。


●【竹沢藤次 独楽の化物】(国芳)は、当館だけが所蔵する貴重な作品です。


●【東海道五十三次之内 赤坂 六代目松本幸四郎の沢井又五郎】(国貞)は、「つや出し」という技法で、見る位置によって着物の柄が見えます。


≪感想 他≫

 展覧会見学は、時間が確保できるなら解説がある日に行きたい。未知の知識も増えるし、自分では気が付かない見所も教えてもらえる。

 今回もこの日に行かれて、とても良かったと感じている。

 本文で書き忘れたことを追記したい。勝川派の展示作品は小さ目のものが多かった。

 

 見学を終えた後、隣接する東渕江庭園を散策した。冬寒の中、梅の香りが春の訪れが近いことを告げてくれた。

 また帰りがけに記念の絵葉書をいただいた。 

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 当館の近くに、かつてよく家族ぐるみで利用したファミリーレストランがある。父が健在だった頃、週末の夕食は父の運転でそこに行ったとるのが慣例のようになっていた時期があった。しかし父が病気で運転が出来なくなり、食事制限もされるようになってからは、自然と足が遠のいた。

 この日、本当に久しぶりに足を運んで夕食をとった。メニューも内装もすっかり変わっていたが、周囲の家族連れにかつての自身の姿が重なり、やはり懐かしさで胸がいっぱいになった。

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by nene_rui-morana | 2016-06-25 16:57 | 展示解説・フロアーレクチャー | Comments(0)
≪ひろがり≫
●横山松三郎はコロディオン湿板方式を3タイプに応用・商品化しました。【弟 松蔵】はスライド、【中島待乳】はポジです。【日本の風景】はステレオヴューワー用アンブロタイプです。横山は北海道出身ですが、東京の写真もたくさん撮影しています。

●田本は第一世代、弟子の武林盛一は第二世代の写真家です。

●武林が撮影した【屯田兵観兵式】は、人物のブレを修整して完成させています。当時の写真は修整が必須で、展示作品の中には台紙にパレットのデザインがされているものもあります。一定時間静止していなければならないので、スタジオで撮影された写真の中には首押さえが時々見られます。

●江崎礼二は写真乾板を利用して早撮りを可能にし、瞬間を撮影することに成功しました。赤ん坊や子どもの写真は画期的です。【影山正博】はアンブロタイプです。江崎は後に東京市議会議員や凌雲閣の館長などをつとめ、「東京百美人」も企画しました。

●本展覧会では新潟の写真も出展しています。【籠手田知事令嬢】は稀少な写真油絵です。裏面にもご注目下さい。

●磐梯山が噴火した時は、多くの写真家が現地に行って写真を撮りました。三陸沖津波の時も、東京の方から多くの人が赴きました。


≪特別展示≫
 本展覧会はオリジナルの展示をコンセプトとしていますが、ラストを飾るこの【開拓当時の富岡町】だけは、唯一デシタルです。企画の段階で所蔵されている「富岡町歴史民俗博物館」に足を運び、当然オリジナルを貸していただく方向で調整していました。しかしご存知のとおり、東日本大震災後の福島第一原発の事故により富岡町は警戒・避難区域に指定され、町民の皆様は避難生活をされています。博物館のコレクションは相馬に避難していますが、展示できる状況ではありません。学芸員の方は仮設住宅関係業務に従事され、これまで培ってきたスキルが全く職務に生かせていません。これが「復興」の現実です。


≪感想≫
 黎明期の写真に興味を持ち始めてから20年近い歳月が流れ、この間それなりの数の写真集に目を通し、いろいろな展覧会に足を運んだ。これらを通じて心に残る写真に多数接し、詳細は分からないながらも初期写真の名前程度は覚えた。
 本展覧会も幕末から明治までの貴重な写真を多数見ることができた。フロアレクチャーも、自分一人では気づかなかったであろう見所を多数紹介していただき、新たに学んだこともあり、非常に意義のある内容だった。
 2年後には本シリーズの総集編が予定されているとのことで、今から待ち遠しい。それ以外でも類似の展覧会が開催されるようなら、ぜひ足を運びたい。
 なお、特別展示に関して三井氏が力をこめて述べられた被災地の現状は、やはり心に迫るものがあった。警戒区域には他にも貴重な初期写真が残っていると思うが、それらが展示される日がいつになるかは分からない、これが現実なのである。避難されている方々の日常生活が以前と同じに復活するまで、避難区域に残る文化財を公開する展覧会が実現するまで、真の復興とはいえないだろう。その日の一日も早い訪れを心より願っている。
by nene_rui-morana | 2013-11-21 20:41 | 展示解説・フロアーレクチャー | Comments(0)
 最近ではGW恒例となっている東京都写真美術館の標記展覧会、後期はフロアレクチャーとあわせて見学することとし、4月28日(日)に会場に赴いた。
 当館学芸員・三井圭司氏のお話を聞くのも、今回で3回目となった。
 例によって、以下に印象に残った内容を中心にまとめ、その後に<MC>として感想を記したい。

 *当日から時間が経過して記憶も曖昧となり、写真に関しても素人なので、間違いも多々あると思いますがご了解ください。東京都写真美術館のHPには三井氏のブログが掲載されていて、疑問・質問にも答えていただけると思います。

≪はじめに≫
●平成19年に本シリーズが開始となりました(準備はそれ以前からされていたとのこと)。平成23年よりは「初期写真」という言葉を使っていますが、該当史料の数は多く、所蔵元に交渉して出展をお願いしてきました。

●今回の展示の中に北海道・東北に属さない「新潟県」があるのを見て、不思議に思われた方もおられると思います。自分は2002年に就任し、しばらくは経験が浅かったので、新潟県への出張が認められませんでした。今回ようやく現地調査が叶い、本展覧会に新潟県の写真を掲載することになった次第です。

●本日は、時間旅行、空間旅行を楽しんでください。東京の写真が東北にある事実にも触れていただけます。

<MC>
 スタートのコメントから、胸がワクワクした。


≪であい≫
●写真の最古は1839年撮影といわれています。
 前回も『遣欧使節』の写真は展示しましたが、オリジナルの写真はセピア色です。原版は紫で、黒を強くし保存性を高めるために調色をします。
 本日展示してある【第1回遣欧使節団 集合写真】【甲冑姿の河津伊豆守】【すみ】【田中光儀】は1988年に複製したもので、ご存知のとおり当時はまだデジタル写真はありませんでした。
<MC>
 レクチャー終了後に初老の男性が【甲冑姿の河津伊豆守】を指して三井氏に「この鎧を持ってヨーロッパまで行ったんですか?」と質問され、「そうです、この姿でナポレオン三世に拝謁しました。」と答えられていた。

●【陣羽織姿の松前崇廣】は1866年以前に、誰かは分かりませんが外国人によって撮影されたと思われます。装丁はベークライトで、【野々村忠実像(チャールズ・ドフォレスト・フレデリクス作、1869年=万延元年撮影)に酷似しています。

●【第2回遣欧使節団 池田筑後守像】はなかなかイケメンですが、見ていただければ分かるとおり、他の写真に比べるとかなり退色しています。それはすまわち、それだけ多くの光にさらされていたわけで、多くの人が見た、人気があったということになります。
 本展覧会は、展示作品を前後期で半数ずつ替えていますが、これは劣化を避けるため、採光をおさえるためなのです。


≪まなび≫
●【致堂様 御前様 (第15代南部藩主 南部利剛と正室 明子)】(関政民撮影)は、フレームは印金で紫も用いられた豪華な装丁で、大事な写真であったことが分かります。

●土方歳三の写真(タイトルは【箱館市中取締 裁判局頭取 土方歳三】)は、前期はレプリカでしたが、本日展示されているのはオリジナルです。撮影は明治2年ですが、明治末まで繰り返し復刻されています。それだけ、土方という人物が重要だったことがうかがえます。

●土方の写真と撮影者ともいわれる田本研造は大変有名な写真師です。本展覧会には田本の写真の他、残存例の少ない納品袋も展示されています。

●鶏卵紙は薄いので、補強してPRされました。ガラスの写真はネガ像で、象牙色なので見るために黒の紙が使われました。

●私は、写真は「もの」であり、「もの」として持つ情報(台紙、裏面の書き込み、包み紙、側面の意匠など)が重要であると考えます。写真の裏面は、デザインの視点からも鑑賞していただきたいと思います。

●日本の初期写真の最初の世代の人々を第一世代とすると、本コーナーの中には第二・第三世代の人を師とした人もいます。

●今回は菊地新学の写真が多数展示されています。菊地は三島道庸によって「山形県御用写真師」に任命され、三島が関与した県内インフラなどを被写体とする多くの写真を撮影しました。
<MC>
 本日は菊地新学が撮影した三島道庸の肖像写真も展示されていた。福島県令や警視総監としての三島には、高校の日本史の授業やビゴーの諷刺画などで接しているが、山形県令としの顔は初めて知った。福島事件や保安条例により「民衆の弾圧者」として語られることが多い三島だが、山形県の公共インフラ整備や記録として写真を残すなど、自画自賛的な要素はあったとしても特筆すべき功績があったことを認識した。なお、麻生太郎氏は三島の子孫とのことで、三島の血は現在の皇室にもつながったことになる。

●本日展示されている柴田一竒の写真は青森を写したものですが、彼は仙台出身です。
by nene_rui-morana | 2013-11-20 15:13 | 展示解説・フロアーレクチャー | Comments(0)
[聴講日] 平成24年8月11日(土)

[会 場] 太田記念美術館

[講 師] 渡邊 晃 氏


 告知以来楽しみにしていた太田記念美術館の企画展、今回は当館学芸員・渡邊晃氏による展示解説が開催される日に合わせて会場に足を運んだ。地下の部屋でスライドを利用して、午後2時より30分ほど展示解説をしていただき、いろいろ勉強になった。
 *こちらの内容を先にアップした方が分かりやすそうなので、今回はそうさせていただきます。MCは自身のコメントです。

●広重最初のヒットは【東海道五十三次】、他に【名所江戸百景】というシリーズも描いており、この2シリーズが広重の二大代表作といえるでしょう。
 ところでその【東海道五十三次】ですが、実は広重はこのシリーズも複数手掛けており、今日最も良く知られているのは版元名から≪保永堂版≫と呼ばれているものです。他はタイトルの書体から≪行書東海道≫≪隷書東海道≫というニックネームがついています。

●本展覧会で広重とコラボを組んでいる歌川国貞という絵師は、今日ではあまり知られていませんが、歌舞伎絵や美人画を得意とし、後に師匠の名を継いで歌川豊国と名乗りました。

●1830年頃にちょっとした旅ブームとなるが、当時は全行程の旅は危険で自由も制約させていたため、お伊勢参りや金毘羅参りなどが名目に使われた。広重の浮世絵により、旅した人は当時を思い出し、行ったことのない人は想像をめぐらしたのでしょう。
[MC]
 自身も旅行番組や新聞広告を見て、かつて旅した場所を思い出したり未だ訪れていない地に思いをはせた経験は無数にあるので、その気持ちはよく分かります。

●【東海道五十三次】のスタートを飾る【日本橋】、大名行列が橋を向こうから橋を渡り、手前には近くの魚河岸の商人が描かれ、高札も見えます。右側の木戸の後方は、実は罪人のさらし場となっていました。

●【箱根】ではカラフルでとがった山々が描かれていますが、誇張した表現がされています。こちらにも大名行列が描かれています。この関は厳しいことで有名でした。

●【府中】は家康が晩年を過ごした駿府があり徳川家ゆかりの土地で描かれているのは安倍川、外様大名が攻めてきた時の防御として橋は架けられず人足や駕籠で川を渡りました。人足は熟練していましたが、それでも時には事故が発生したようです。

●【御油】には<竹之内板>と書かれた大きな提灯が描かれていますが、実はこれは保永堂の社長の名で、随所にこのような表現が見られます。
 にわか雨のシーンを描いて大変人気のある【庄野】の中の傘にも<竹のうち>と描かれています。この作品中の人物は鍬を持っており、地元の農夫と考えられます。


●今回展示している国貞と広重の合作作品【双筆五十三次】は、広重の東海道シリーズがヒットしたのでそれにあやかり、広重が背景を、国貞が人物を描いたものです。今日のCGや特撮に似ています。しかし東海道シリーズをそのまま描いたのではなく、以下のようなアレンジがされています。この点は、今日でいうところの版権をクリアーして制作されたと思われます。
・【目録】には各駅の意匠とあわせてヒントとなる説明もかかれている。
・東海道シリーズは横長作品だが【双筆五十三次】は縦長なので、(写真でいうのところの)ズームを調整して見栄え良く工夫している。
・手前に人物が描かるので、背景に描かれたものの配置も多少変えている。
・多少の変更は各所に見られる。例えば【三嶋】では広重作品では駕籠かきは歩いているが、国貞は休み杖をついた姿で描いている。
・【舞坂】に描かれた三人の瞽女と同じ構図の女性は保永堂版の【二川宿】に見られる。

●【双筆五十三次】の中には、以下のような謎かけが随所に見られます。 
・【日本橋】の子供が手にしているのは槍持ち人形、保永堂版に見られるように槍持ちは大名行列の先頭をつとめている。
・【吉原】に描かれている僧は西行、実際に奥州へ向かう途中に富士山を見て歌を詠んでいる。
・【見附】は京から東海道を下って最初に富士山が見えることからこの名がついたとも言われ、そうすると二人の人物が見上げているのは富士山ということになる。実はこの説は正しいと裏付けられるのが保永堂版【原】、同じ構図の女性が冨士を見上げています。
・【赤坂】に描かれている人物は他の作品とは雰囲気が違うが、署名≪英一帯≫が示すように国貞は一時期、英一蝶に傾倒してその画風の作品を描いたいた。三河国はこの絵の人物のような漫才が盛んだった。

●今回の展示には役者と東海道を描いた【東海道五十三之内】というシリーズの作品が何点か見られます。(スランドを示して)この八代目・市川団十郎という役者は美男子で女性に大変人気がありましたが、若くして突然自殺し、死後多くの≪死に絵≫が描かれました。
[MC]
 自身も最近興味をそそられ、本ブログでも何度かとりあげた八代目、今日でも人気俳優が亡くなると週刊誌で特集が組まれたり追悼写真集が出版されますが、この点からも広重の時代は今日の先駆け的要素があったと感じます。

●葛飾北斎も、保永堂版に先立つこと30年前に東海道シリーズを手掛けています。

●最近人気が出ている歌川国芳は、複数の駅をまとめて一枚の作品に仕上げました。興行的に成功したかどうかは疑問ですが。


≪感想≫
 最近の展覧会では、可能な限り展示解説等がある日にあわせて出向くようにしている。かなり良く見たつもりでも素人目では重要な見所を見落とす可能性も多く、また新たな情報を得る絶好の機会ともなる。今回も、広重と国貞という自身にとっては最高のコラボの作品に関して専門家から詳しい解説を聞くことができて、大変嬉しく、有意義な経験となった。解説後の作品鑑賞もより深いものとなったと感じている。今後も、この度得た知識等が生かせる展覧会が再び実現することを切望してやまない。
 なお、内容とは直接関係はないが、会場はクーラーが効きすぎて少々寒かった記憶がある。この夏も猛暑で節電が求められたが、各所で同様の体験をした。来夏は大勢の人が集まる施設は冷房の設定温度を検討してほしい。
by nene_rui-morana | 2012-11-17 16:44 | 展示解説・フロアーレクチャー | Comments(0)
● 日本 文久3年-明治17年
 いよいよ本日の最大の見所の一つ、幕末から明治初期の日本を撮影したコーナーとなる。ここに展示された作品の多くはおそらく過去に何らかの形で目にしていると思うが、見る度ごとに新たな感動を覚える。町並み、自然、そこ生きる人々、黎明期の日本写真は自分にとっては極めて魅力的な分野であり、それらに接した時の興奮も並々ではない。
このコーナーにはまた仕切りで囲まれた一室が設けられ、肖像写真を中心とした貴重な作品(一部は手彩色写真)が展示されていた。【日本の歌手達】【同胞】に写された人物は刺青をしていた。【舟の上の人々】はまるで浮世絵を見ているようだった。
[M.]
 日本における写真は、依頼に応じて供給されました。
 ベアトはかのチャールズ・ワーグマンや、日本人とも組んで仕事をしました。*【大仏の銅像】は掲載されている新聞も併せて展示、展示作品の一部にはネガに書き込みがされているという。
 【横浜の断崖からの富士】の他、富士山を撮影した作品が何点かありますが、元来の色調はもっと薄く、これらには書き込みがされています。当時の技術では黄色は黒く写り、青は写しにくく、展示作品のような色彩はまだ出せませんでした。
 (室内の【当社の絵師頭】を示しながら)当時の写真館にはこのような、彩色や修整などを担当するスタッフも存在していました。また当時の技術では一定時間ポーズをとっていないと撮影できなかったため、それができるモデルもいました。本展覧会のポスター等にも使われているこちらの写真【冬着姿の女性】は、浮世絵などにもよく描かれた日本古来のテーマ<雪中美人>をモチーフとしたもので、ポーズもキマっいます。しかしながら、素人の女性が撮影用の衣装を身に着けてこの姿勢を一定時間保つだけの体力が果たしてあったのか、案外この人物はトレーニングをつんだ男性かもしれないと私は思っています。


●朝鮮 1871
日本では明治初期にあたる朝鮮の写真は、これまで直接見る機会はあまりなかった。世界史の時間では触れられない米朝戦争(辛未洋擾)に関しても今回初めて知った。色々な意味で新たな関心をそそられるコーナーだった。
[M.]
 辛未洋擾はアメリカの敗北(撤退)に終わったが、ここでもクライアントであるアメリカが不利となるような写真は撮影されていません。写されている死体はすべて朝鮮人、朝鮮軍艦上の米兵の姿など、写真だけ見たならばアメリカが勝利したと錯覚します。


● ビルマ
 写真原版から顧客リストまですべてを手放して投資に挑んだベアトは、結果財産のほとんどを失い、日本を離れた。このコーナーは離日後のベアトの足跡を伝え、もちろんすべての作品が初見、120年前のビルマを伝える写真は大変感銘深かった。
[M.]
 時代は移り、ゼラチン乾板が開発され、【ホン・イーの葬列】では歩く人々が撮影されています。【ザガイン寺の49躯の釈迦像】では、時間単位で露光が可能となり、奥の仏像まで鮮明に写されています。
 ヨーロッパからクリミア、中国、日本、そしてビルマと、ベアトの写真人生は、まさに黎明期写真の歴史そのものでした。


≪感想≫
 毎回大いに触発される本館の写真展覧会、今回も受けた興奮と感動は並々ならぬものがあった。
 大好きな幕末~明治期の日本の写真は、何度見ても新たな発見と感動がある。アヘン戦争やクリミア戦争・セポイの反乱など歴史的大事件は、関連書を読むよりも展示のような同時期に写された写真を見た方が、よりリアルに感じられる。今回は過去に接してきた19世紀の中国や香港だけでなく、これまであまり見る機会がなかった(かろうじて見られたのはアルベール・カーンの写真展)同時代ののインドや朝鮮さらにはビルマの写真まで出展され、大いに興味をそそられる内容だった。これまで知らなかった辛未洋擾などの歴史的事件にも触れられ、いろいろ勉強になったと思う。近代史を愛する者にとってこの時代のありのままの姿を後世に残してくれたベアトはまさに大恩人、彼が日本を訪れてくれたことを感謝する。
 あらためて感じたが、作品鑑賞の上で専門家の解説は何より価値のある指南となる。今回もこれまで知らなかった内容をいろいろ教えていただき、一人では間違いなく見過ごしていた見所を多数示していただいた。仕事を持っているとなかなか難しいが、展覧会ではできれば展示解説にあわせて会場に足を運びたい。
 今回も見応えのある展覧会を実現していただいた三井氏をはじめとする当館スタッフ諸氏に深謝し、次回の展覧会を今から心待ちにしている。
by nene_rui-morana | 2012-06-04 21:11 | 展示解説・フロアーレクチャー | Comments(0)
[見学日] 2012年4月29日(日)

[会 場] 東京都写真美術館


 ここ数年恒例となっているGWの当館の古写真展覧会、今年も告知の時から楽しみにしていた。今回はフロアーレクシャーとあわせて見学することにして、4月29日の昼に恵比寿に行き、近くのレストランで昼食をとった後、会場に入って少し見学しながら開始を待った。
 午後2時にレクチャー開始(この時間は前後に別の場所に行くには少々中途半端、2時間早めるか遅らせるかしてほしかった)、解説員は昨年同様、当館学芸員の三井圭司氏、以下に見学と感想を三井氏の解説[M.]と併せて記したい。


 展示室に入ると、まずはベアトの年譜や彼の足跡を記した世界地図などが目に入った。幕末から明治初期の日本の写真を多数撮影したフェリーチェ・ベアトの名はよく知られているが、日本を離れた後の消息は長らく不明で、ごく最近没年と終焉の地がフィレンツェであることが判明したと某所で知った。
[M.]*年譜を見ながらベアトの生涯等を解説
 本展覧会は先ごろロサンゼルスのJ・ポール・ケネディ美術館で開催された展覧会の日本巡回展である。
 フェリーチェ・ベアトはベチネアで生まれ、コンスタンチノーブルを経て、クリミア戦争の写真を撮影した。義理の兄弟である写真家ジェームズ・ロバートソンと、兄アントニオと共に写真業に携わった。
 中国を渡り歩き、幕末の日本を訪れて多くの写真を撮影し、一方で様々な事業に投資し、かなりの成功をおさめた。そのまま写真業だけ続けていればよかったのかもしれないが、(結婚はしていないが)女性とお金が好きで、顧客リストや機材など資産のすべてを手放して銀取引に投資し失敗、全財産を失った(この事実は外国人居留区の新聞でも伝えられていると年譜に書かれていた)。
 その時、写真に関する最低限の機材や情報を手元に残しておけば、ベアト自身は写真術も経営手腕も交渉能力も備えていたので、やりなおすことは可能だったかもしれない。しかし顧客リストから何からすべて売却してしまって写真業を再建することはできなかった。


● 初期写真 1855-57
 最初のコーナーには、ベアトの他に先述のロバートソンの写真(あるいは彼との共同制作)も展示されていた。いずれも日本を訪れる前の、主にクリミア戦争を撮影した写真でもちろん初見、激動の19世紀を伝える展示に興味深く見入った。今回は各コーナーに解説シートも用意され、指南をしてくれた。

[M.]
  【凸角堡の内側、ロシアの砲台】【バラクラヴァ港の入り口】は戦地で撮影されたが、武器や兵士が写されておらず戦争観が感じられません。


● インド 1858-60
 <セポイの反乱>の時代のインドを撮影したこのコーナーの写真もおそらく自分初見、三井氏の言葉を借りれば<銃後の兵士の肖像写真>ということになる。他に建設写真も展示されていた。
 【カイゼルバーグ宮殿の大門―英国側軽歩兵師団とブレイジャー率いるシク教徒によって、1日で3千人のセポイがこの前庭で殺された[ラクナウ]】や【フサイナーバード・イマームバーラー宮殿とモハメッド・アリ・カーンの墓。1858年3月のサー・コリン・キャンベルによる2回目の攻撃[ラクナウ]】など、攻撃の爪痕も生々しい壮麗な宮殿の姿は、特に心に残った。
 シカンダルバーグ宮殿は、内部と外部が撮影されていた。
 【タージ・マハルの入口】やモスクのアラベスク模様など、150年前のインドの景観も自分の心に強く響いた。
[M.]
 【第93高地連隊と第4バンジャーブ連隊による2千人の反乱兵虐殺のシカンダルバーグ宮殿の内部。1857年11月のサー・コリン・キャンベルによる最初の攻撃[ラクナウ]】は、実際は1858年に撮影されたものです。当時の技術では戦跡写真の撮影は不可能だった。この作品に写されている累々たる屍は、前年に戦死した兵士の墓を暴き、遺体を並べて撮影したのではと思われます。これを現代の倫理観に置き換えるのは適切ではない、時代を伝えるものとして見ていかなければ。


● パノラマ
 ベアト作品の大きな魅力の一つがこのジャンル、そしていよいよ日本が被写体として登場する。壮麗でスケールの大きなパノラマ写真はやはり見応えがある。香港、江戸、横浜、ベナレス、ベアトは19世紀の各都市を撮影し、極めて貴重な史料を残してくれた。
[M.]
 1990年代の一時期、日本でもパノラマ写真が流行しましたが、長続きしませんでした。理由は明確、このサイズはアルバム保存に適さなかったからです。
 【香港のパノラマ、北中国遠征艦隊を俯瞰、1860年3月1日】はバナナ型をしていて形が整えられていません。単に面倒だったのか、あるいは下部の建物群を写す目的があったのでしょうか。*この作品の船の多さには驚かされた。
 ベアトはアンペールに随行して江戸を訪れました。【愛宕山から見た江戸のパノラマ】はその時に撮影されたもので、おそらく軍事目的だったのでしょう。5枚の写真をつなげたこの作品は、白壁が曲がってみえます。
 ベアトの日本写真は≪ILN≫にも掲載されました。


● 中国 1860
 舞台は中国、年代的には先の≪パノラマ≫のコーナーよりこちらが先行する。アヘン戦争後の激動の中国の姿を、ベアトの写真は生々しく伝えるが、その背景について三井氏は貴重な解説をしてくださった。
 このコーナーでも【紫禁城に通じる南門から撮影した北京のパノラマ】など壮麗なパノラマ写真に魅了された。天壇公園など今日でも人気の観光スポットを写した写真は、自身が北京を訪れた時の記憶と重ねながら見た。特に荒廃の様子が生々しい【焼かれた後の皇帝の夏の別荘、円明園(実際は離宮[円明園や清漪園][現頤和園])など、湖から撮影、1860年10月18日 北京】は特に印象に残った。また、当時の中国国内にモスクが存在し、タタール人が生活していたことは、自分にとっては新たな発見だった。
 【大連湾のパノラマ 1860年6月21日】も印象的な作品だが、写されている宿営や軍艦に戦時下であることが感じられた。
[M.]
 ベアトはアロー号事件(第二次アヘン戦争)をその目で見ました。クライアントはイギリス人、従って撮影は一面的で、【仏軍が侵入口とした大沽北砦の角 1860年8月21日】【大沽北砲台角の内側 1860年8月21日】に写されている累々たる屍はすべて中国人です。ニュートラルではありませんが、19世紀においてはこれが当然でした。*この2枚の写真からは自分も強いインパクトを受けた。
by nene_rui-morana | 2012-06-03 14:38 | 展示解説・フロアーレクチャー | Comments(0)
≪ひろがり/Diffusion≫

●(2枚のほぼ同じ肖像写真を指して)こちらの【少女像】は「山内家写場」という撮影場所は判明していたが被写体は不明だった。一方の【豊子像】は写された人物の名前は分かっていたが写された場所が不明だった。この2枚の写真を照合することにより、写された少女が土佐新田藩の姫・山内豊子であることが判明した。
<MC>
 他のコーナーでも、幕末から明治初年頃の大名藩邸内に写場が存在するケースがあったとの説明がされた。幕末明治の有名人の中には写真嫌いが目立つ一方、大名級の人物の中には徳川慶喜や弟の昭武など写真を趣味とした人もいたことを思い出した。

●井上俊三が写した写真を何枚か展示しているが、最近かの有名な坂本竜馬の写真を撮影したのは上野彦馬ではなく、上野の弟子で土佐藩出身の井上なのではないかという説が出されている。当時の写真スタジオも当然ながら複数のスタッフがおり、実際には弟子が撮影したとしても師匠のものとされる。その点からいえば竜馬の写真の撮影者は上野とみなされるのだが、井上俊三に関しては山内家からかなりの援助がされており、スタジオのレンタルフィーまで出ていた。テナント料まで出ていた以上、井上が撮影した写真ならば井上のものとしてもいいように思う。
<MC>
 新説には興味をそそられたが、実際に撮影した人物を特定することは多分不可能だと思うし、個人的には実際の撮影者が上野・井上のどちらでもいい。注目したのは時の写真スタジオのあり方で、これも日本古来の工房を継承している。伊藤若冲、葛飾北斎、歌川国貞、等等、膨大な作品を残した絵師はすべて工房を持ち、複数の弟子が制作に関与したが、完成した作品は師匠のものとして発表される。今日のアニメや漫画と同じである。黎明期の写真を取り巻く環境も同様だったのだと思った。

●コロディオン方式は紙に焼き付ける方法、画質は向上したが光と酸に弱いので、保存のためには桐箱に入れるかアルバムに整理された。ここの展示はその具体例の数々である。*写真の劣化については【ボードインアルバム】の展示箇所でも説明がありました。

●【明治天皇像】【美子皇后像】は印刷するためにゼラチン乾板(ポジ)にされた。当時皇族の肖像写真を売るのはもちろん違法で見つかれば投獄されたが、売れるし著作権などなかった時代なので釈放後に同じことが繰り返された。

●【写真袋】の発見は自分にとっては最も大きな感激だった。今日でもスタジオで証明写真を撮っても袋をとっておくことはまずない。展覧会にあたって実施したアンケートでも写真袋の所蔵はほとんどなかったので、今回発見できた感動はひとしおだった。
<MC>
 自分もこの展示は特に心に残ったので、三井氏の感動には大いに共鳴する。

●当時の写真は修整が必要不可欠だった。【開業式】にはそのための機材なども写されており、その様子がうかがえる。


≪全般的な感想≫
 時間がオーバーすることをしきりに気にされつつ、ほんの少し定刻をオーバーしてフロアーレクチャーは終了した。腰痛持ちの自分には1時間立ったまま説明を聞くのは厳しいのではと思っていたが、時々足休めをしながら興味深いお話をうかがい、疲れを感じることもなかった。
 今回の解説を聞いて、あらためて、物事を学ぶうえで専門家(もしくは教師)の存在がいかに重要かということを再認識した。最近の展覧会では説明文などもかなり分かりやすいように工夫されているが、どんなに気合を入れて取り組んでも限られた時間内では限界があるし、見落としは避けられない。知識がない身では重要な展示でもそれと気が付かないまま見学を終えてしまうこともある。またそれなりの知識や興味のある展示でも未知の要素は存在する。
 そういった意味では、今回の展示解説は自分にとっては非常に有意義だった。自分だけの見学ではその重要さに気がつかなかった【鶴丸城内の藩主居館】その他の展示について説明していただき、「すばらしい風景写真だな」としか感じなかった【長崎パノラマ】についても軍事目的がうかがえるとの指摘を受け、大いに感銘を受けた。
 また、はなはだご無礼なだから、三井氏の感性には自分と共通するものも感じた。写真裏面やフレーム外のデザイン、【写真袋】などに対する思い入れは自分も全く同じ、解説を聞いてそれを実感し、あらためて本展覧会を見ることができて本当に幸運だと思った。
 初期写真技術に関しては知識がほとんどない自分には充分理解できない点もあったが、全般的にはとても密度の濃い内容で新たに学べたことも多く、黎明期の写真の未知の魅力にも目覚め、大いに満足できた。今後も展覧会見学の折には可能な限りスケジュール調整をして講演会や展示解説をあわせて聴講したいという気持ちを新たにさせられた。
 「館長に怒られそうなのでぜひ」という三井氏の哀願にのったわけでもないが、いろいろ再確認したいこともあったので、当初は予定していなかった展示図録を購入した。じっくり読み、不明箇所等は調査して、次回の特別展までに近代写真に関する知識をもう少し増やしておきたいと思っている。
by nene_rui-morana | 2011-05-30 21:25 | 展示解説・フロアーレクチャー | Comments(0)
≪まなび/Mastery≫

●黎明期の写真をになったのは大名、特に島津家は早くから洋楽研究を通じて写真術に注目していた。【島津斉彬像】は現存最古の日本人の手による写真だが、ここに展示されているのはレプリカで、オリジナルを所蔵する鹿児島の尚古集成館でも本物は展示していない。15年ほど前にレプリカを2つ作りました。(作品前の床を指さして)この光をご覧下さい、タゲレオタイプは銀の板を用いるので、このように光が集まるのです。
<MC>
 【島津斉彬像】は歴史書で何度か目にし、昔鹿児島を旅行した時に尚古集成館にも立ち寄ったが、詳しい解説をしていただいて新たに感じるものがあった。タゲレオタイプの銀板が集める光についても個人ではそこまで目が届かないので、専門家による解説の意義を再確認させられた。

●【鶴丸城内の藩主居館】(伝島津斉彬撮影)は後記最大の見ものの一つ、本日これを見られる皆様は幸運です。「カロタイプ」と呼ばれるネガポジ式で、ご覧のとおり質は良くなく、果たして日本でこの方式が採用されていたのか疑問の声があがっていましたが、この写真により島津家では実行されていたことが分かりました。
<MC>
 大変貴重な展示とのことだが、画質は不鮮明なので、本日三井氏のこの説明を受けなければ間違いなく見過ごしていただろう。あらためて、歴史的価値は大きくても素人目では判断できない展示を見逃さないために、専門家の解説は必要不可欠であると痛感した。

●【ソラールカメラ】は、実際に使用されたのではなく、写真術伝授のための教材であった可能性が高い。

●【横井小楠像】を撮影した鵜川玉川は上野彦馬や下岡蓮杖より先に開業しており、日本初のプロカメラマンだった。ただし彼には後進の存在が確認できないので、開祖とみなすのは難しい。鵜川は文久年間末に江戸の大名藩邸に出入りし、報酬として絹などを受け取っている。

●鵜川に少し遅れて開業した上野や下岡は多くの弟子を輩出し、以後の写真界を担う原動力となった。上野は写真術に関する書物も残し、肖像写真には薬品なども写されており、熱心に研究したことがうかがえる。

●(展示ケースを指さして)この高さとこの方式は私が考案しました。この時代の写真は、台紙裏面や下部にも注目してほしい、そのためにこの高さの展示ケースと立スタンド式の展示方法を考えたのです。裏面にも下部にも様々なデザインが施されているのがお分かりいただけると思います。完成度も様々で、かなり芸術性の高いものもあれば、正直あまり出来がよくないものもあります。上野は海外にもスタジオを持ち、ウラジオでの写真は未だ確認されていませんが、上海と香港については裏面のデザインが違うのですぐ判別できます。
<MC>
 近代写真に関しては自分自身もフレーム部分や裏面の装飾に大いに魅せられるので、三井氏のこの考案には感謝してやまない。
当館以外の展覧会でも、最近では壺など多面形の美術工芸品についてはあらゆる方面からの鑑賞を求めたいと感じるようになった。きっかけは≪皇室の名宝≫における並河靖之の【七宝四季花鳥図花瓶】、幸いこの作品はすべての面が見られたが、以後多面形の作品が壁面展示されていると物足りなさを覚えるようになってしまった。今後は三井方式を応用した展示の普及が望まれるが、不可能ならば、鏡を併設して死角部分を見えるようにするか、会期中に展示面を変更するなどの配慮を求めたい。

●内田九一のこれらの風景写真は江戸城周辺を廻って撮影され、お土産写真として用いられた。
<MC>
 九一の写真にも、明治初期の東京の様子を伝える貴重な史料として、大いなる感銘を受けた。日常生活の中で比較的親しく接している場所も多く、自身の地元の100数十年前の姿を残してくれたことを九一に感謝している。
by nene_rui-morana | 2011-05-29 15:48 | 展示解説・フロアーレクチャー | Comments(0)
[日時]2011年5月3日

[場所]東京都写真美術館

[講師]三井圭司氏(当館学芸員)

 最近、各博物館の展覧会にあわせて開催される講演会や展示解説にも興味を抱くようになり、できれば同じ日に見学とあわせて聴講したいと思っている。よって、本展覧会が告知されてフロアーレクチャーが行われると知った時、迷わずその日にスケジュールをあわせることを決心した。ただし、当初は夜間開館時に行くつもりでいたが地震の関係でこれがなくなったため、GWの日中に足を運んだ。
 当日は少し早めに到着し、展示を見ながら開始の時間を待った。

 定刻の11時、会場前に集合、休日ということもありかなり大勢の人が集まった。解説員の三井氏より簡単な挨拶と説明がされ、「内容的にどうしても一時間はかかってしまうのでご了解下さい。」と付加された後、会場に入り、約1時間ほど説明を受けた。「本展覧会のタイトルから、被写体としてこの地域を認識されてきた方も多いと思いますが、必ずしもそうとは言い切れません。この地に残された写真を展示しています。」とのことだった。
以下に印象に残った内容を中心にまとめ、その後に<MC>として感想を記したい。


≪であい/Encounter≫

●【外国写真鏡之図】は日本国内のスタジオの様子を描いたのか外国なのは、はっきりしないが、おそらく日本だと思う。注目すべきは、浮世絵でいわば「敵」である写真を取材していること、なおこの時代「写真」といえば「肖像写真」のことだった。
 【松尾延二郎】は水夫としてサンフランシスコへ渡り、【野々村忠実】は遣欧使節としてニューヨークに立ち寄った。混沌とした時代に撮影された史料である。

●長崎海軍伝習所内の医学伝習所の教師ポンペから写真術が上野彦馬らに伝授された。ポンペは写真家ではないが日本における「写真の伝道師」と言われる。

●【相撲】(ジャパニーズ・コスチュームより)はスタジオ内で撮られた。対してロシエが撮影しミラーが印画した【相撲】は屋外で撮影され、臨場感がある。この時代の写真の感度は1程度で、力士にポーズしてもらって撮影した。

●下岡蓮杖の【相撲】には力士や行司の名札が貼られており、一見奇怪な印象を受けるが、これは従来の浮世絵の題箋を踏襲したものである。メディアとしての浮世絵は写真術がもたらされたことにより駆逐されたわけだが、初期の写真はこのように旧来の方法を取り入れることにより、ハイブリット式で実行されていった。

●内田九一の【長崎パノラマ】も、3枚続でパーツ単位でも成立するところに、浮世絵の影響が感じられる。真ん中の人物は写されるためにポーズをとっているが(前述のとおりこの時代はスナップは不可能)、写真の目的には不要のモチーフが撮られているあたりにも、浮世絵と共通するものがある。また写真には、近代の象徴である「製鉄所」と、伝統的な「神社」とがあわせて写されており、このあたりにもこの時代の写真の特性が感じられる。
<MC>
 前回の展覧会で俄然魅了されたこの写真、今回も見られて感動もひとしおだったが、専門家の解説により新たな視点が加わり、より深い感銘を受けた。

●(もうひとつの【長崎パノラマ】の前で)こちらの写真も見ていただければ分かるとおり、7枚組で鉛筆の線も残っているので何に注目して撮影されたのか推察できます。山の稜線や海岸線です。この写真は外国にあったもので、撮影者は不明ですが、最近オイレンブルク遠征隊の写真家ビスマルクでは?との説が出されている。これが事実だとしたら、この写真が撮影された目的も容易に理解できる。風光明媚な長崎の景観を伝えるこの写真に、軍事目的や日本への野心があったとしたら、少々恐ろしいものも感じる。
<MC>
 個人的にも今回特に気に入ったこの写真、一人で見た時は19世紀の美しい長崎の風景にひたすら感動したが、その裏に激動の時代を伝える事実があることを知らされ、また違ったインパクトを受けた。

●【ペリー日本遠征記】内の琉球の人物と【崎原當貴像】を見れば、琉球装束などから本土の人間との違いがよく分かる。太平洋戦争末期の激戦があった沖縄では現存する史料は少なく、大変貴重だが、本島以外では多少は残っていて、崎原の写真は石垣島に現存していた。
by nene_rui-morana | 2011-05-28 21:42 | 展示解説・フロアーレクチャー | Comments(0)

趣味の史跡巡り、美術展鑑賞などで得た感激・思い出を形にして残すために、本ブログを立ち上げました。心に残る過去の旅行記や美術展見学記なども、逐次アップしていきたいと思います。


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