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絵巻マニア列伝

絵巻マニア列伝_f0148563_14412927.jpg[副 題] うい、らぶ、えまき


[見学日] 2017年5月3日(水)


[会 場] サントリー美術館



 絵巻というジャンルは個人的には非常に好きで、思い入れている作品も複数ある。展覧会で絵巻に接する度に、あらたな魅力を覚える。

 表記展覧会に足を運ぶに至ったいきさつは既に覚えていないが、例によって必死にスケジュール調整し時間を確保したことは間違いない。



序章・後白河院

 平清盛や源頼朝と関り、王朝末期~中世初期の歴史に大きな足跡を残した後白河法皇、今様狂いの治天の君として知られているが、蓮華王院の宝蔵に典籍や楽器などを秘蔵するなど、文化活動を推進した。平安王朝が最後の輝きを見せた後白河院の時代には、絵巻物の名品も数多く生み出された。

まず目に入ったのは、後白河院ゆかりの蓮華王院に収められた【六道絵】のひとつである【病草紙断簡 不眠の女】(出光美術館)、眠りにつけない女性が一人、数を数えている。今の自分も年齢からくる不眠症気味で、翌日の仕事を控えて眠れない苦しさはよく分かる。

以降、断簡作品が続く。





【吉記 第二冊(承安四年八月記)】(東京大学総合図書館)は後白河院院司・藤原経房の日記の江戸時代後期の写し、【梁塵秘抄口伝集 巻十】(宮内庁書陵部)ほかの作品と共に、ケースに展示されていた。

【法然上人絵伝 巻十】(京都・知恩院、国宝)は、多分以前に見ているだろう。

【年中行事絵巻 巻十五】(京都市立芸術大学芸術資料館)は明治時代の模写、モノクロだがオリジナルは焼失してしまったので、貴重な記録である。


大好きな【伴大納言絵巻 巻上】(出光美術館)も複製だが、感激した。

白描絵料紙金光明経 巻二断簡(目無経)】(阪急文化財団逸翁美術館)とも再会が実現、初対面の時は大いに感銘を受けたので喜びは計り知れない。


二つの【狭衣物語絵巻断簡】(東京国立博物館、重文)は彰義隊の乱で焼失した名宝の断簡、この乱と東京大空襲で寛永寺が有していた多くの貴重な史料が焼けてしまったのは、惜しまれてならない。



第1章:花園院

 後白河院より約100年後の時代を生きた花園天皇(1297年~1348年)は、父・伏見天皇と同様に絵巻を愛好した。この両天皇の周辺で宝蔵絵を研究し絵画制作に従事したのが絵所預・高階隆兼であった。

【花園院宸記 正和二年春夏記】(宮内庁書陵部)は、ラフな書体だが消込等も見られ、臨場感がある。書かれた正和2年は西暦1313年にあたる。

【春日権現験記絵 巻九】(宮内庁三の丸尚蔵館)は高階隆兼が絵を描いた

 【絵師草紙】(宮内庁三の丸尚蔵館)は、以前に参考書もしくは歴史か美術の本で見たような気がする。

 【管見記 巻五 紙背文書】(宮内庁書陵部)は、西園寺家伝来の日記・文書をまとめたもの、後述する『看聞日記』ほか同時期の史料が、蓮華王院宝蔵の宝物が仁和寺に疎開していたことを伝えている。



第2章:後崇光院・後花園院父子

 時代は室町、後崇光院(1372年~1456年)と後花園院(1419年~1470年)の父子は絵巻に強い関心を持ち、方々より召し出して鑑賞したり、親子間で貸し借りをした。

 本展覧会の目玉【看聞日記 巻三十六(嘉吉元年四月~六月記)】が登場、伏見宮貞成親王(後崇光院)筆、複製で明治大学図書館所蔵、原本は宮内庁が管理している。絵巻に関する記事が豊富に記されている。有名な嘉吉の乱はまさにこの記事が書かれた時に起こった。複製だが大変見応えがあった。

 【融通念仏勧進帳】(京都・禅林寺、重文)は後花園天皇筆、貞成親王(後崇光院)も制作に参加していた可能性があるという。

 【福冨草紙】(京都・春浦院、重文)は、上品なストーリーではないが、現代でも漫画になりそうだった。画中詞は後崇光院と言われている。【天雅彦物語絵巻 巻下】の奥書も後崇光院である。

 【玄奘三蔵絵 巻三・巻四】(国宝、藤田美術館)は、前章の高階隆兼の作である。



3階へと移動、展示レイアウトは、これまでとは変えてあった。



第3章:三条西実隆

 本章の主役・三条西実隆と彼の日記【実隆公記】の名を知ったのは、高校時代に某人気作家が著した歴史関係書を読んだ時だった。大学に入り、【鳥獣人物戯画】を特集したNHKスペシャルを見たことと、他学科専門で院政期の絵巻に関する講義を履修したことが、絵巻物への関心を高めるきっかけとなった。卒業後に研究室で事務員をしていた時、絵巻授業の先生が助手さんと共に図書室内の膨大な活字版『実隆公記』をよく借りに来られた。

 話はやや脱線したが、三条西実隆は自分の専攻の時代の人物ではないが日本の歴史や文化を語る上では欠かせない重要人物であり、今回は多くはないながらも展示から彼の足跡に触れることが出来た。

実隆は応仁の乱で疲弊し荘園からの年貢もままならない時代に生まれ、アルバイトで絵巻の詞書の清書や物語の草稿の執筆などに取り組み、結果的にはこれが彼の学識と名声を高めて歴史にその名を残すことになった。

【逍遥院実隆像】(重文)の所蔵は懐かしい京都・二尊院、後奈良天皇が賛を寄せている。

【当麻寺縁起絵巻 巻四】(奈良・当麻寺、重文)の冒頭では、役行者・大峯の骸骨が鈷杵を握っている。



第4章:足利将軍家

 出光美術館の展覧会その他により、室町時代の歴代将軍が文芸に造詣が深かったことが知らされている。東山文化を発信した足利義政のような人物を輩出したことがそれを実証している。応仁の乱を上手く収束できなかったことで政治家としての評価は低いが、平和な時代に生まれていたら義政は文化人として千利休並みの評価を受けていたと思う。本章は足利将軍家に関する展示がされていた。

 【誉田宗庿縁起絵巻 巻中】(大坂・誉田八幡宮、重文)は他所で見たような気がする。先述の嘉吉の乱の犠牲者・足利義教が奉納したと言われている。

 【硯破草紙絵巻】(細見美術館)は、第十一代将軍・義澄が所持していたことが、「明応四年十一月廿九日 源義高」という奥書により確認できる。義澄は当時16歳、相当この絵巻を読み込んでいただろう。

 【長谷寺縁起絵巻 巻二・巻三】は13歳の十二代将軍・義晴の愛玩具であったことが、詞書を書いた近衛尚通の日記『後法成寺関白記』や小絵という体裁から推察される。



終章:松平定信

 時代は一気に江戸へと移る。

 八代将軍・徳川吉宗の孫であり、老中として「寛政の改革」を推し進めた松平定信の、政治家としての力量については高く評価されないことが多いが、学者・文化人としては間違いなく超一流だった。全国の古文化財を調査・記録して図録『集古十種』を出版、愛好した絵巻の模写・修復・補修事業にも尽力している。

本章の【法然上人絵伝 巻三十四】は定信の命により制作された写しで国宝、懐かしい室津が展示されていた。

今回初めて知った『古画類聚』は『集古十種』の続編、【古画類聚 肖像人物服章 七】(東京国立博物館)を見て、出典を調べたいと思った。

【石山寺縁起絵巻 巻一・巻四】(サントリー美術館)は定信に重用された谷文晁が模写したもの、学問や出版を制約する政策をとった定信だが、武士ではない文化人にも広い人脈があった谷文晁とは身分を超えて親しく交わった。



≪感想≫

 大好きな絵巻の展覧会で、残念ながら前後期両方を見ることはできなかったが、心に残る展示も多かった。

 足利将軍家の芸術への造形の深さや、武士に政権を握られた時代の天皇家や公卿の足跡について、触れることができたのも大きな収穫だった。

 『集古十種』と『古画類聚』は全編見たいと思った。これだけでも立派な展覧会が開催できるだろう。

 いくつかの絵巻作品を新たに知ったが、文書関係の展示作品の中にも感銘を受けたものは多かった。『看聞日記』もぜひ読みたいと思った。

 またぜひ、絵巻をテーマとした企画展が開催されることを願っている。


by nene_rui-morana | 2019-08-31 23:50 | 展覧会・美術展(日本編) | Comments(0)

趣味の史跡巡り、美術展鑑賞などで得た感激・思い出を形にして残すために、本ブログを立ち上げました。心に残る過去の旅行記や美術展見学記なども、逐次アップしていきたいと思います。

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