西郷どん・後期 1

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[副 題] NHK大河ドラマ特別展  [見学日] 平成30年6月29日(金)  [会 場] 東京藝術大学大学院美術館



 大河ドラマの特別展は江戸東京博物館で開催されるのが恒例だが、現在は1階展示室が改装工事中のためか、今年は表記会場となった。

 今年は明治維新150年で幕末・維新期が注目されており、様々な企画が目白押し、表記展覧会は大学の後輩が送ってくれた割引券を利用して鑑賞した。

当日は直前の休日出勤の代休をとった。近くの喫茶店で小休止し水分を摂り、会場に向かった。



 まずはB2Fに移動し、映像コーナーで≪西郷どん 英雄への道 青春篇・怒涛篇≫を見た後、展示会場へと入った。

作品後の()内は所蔵を記しています



プロローグ

 スタートは【西郷隆盛肖像画】(個人)、【薩摩潟】(鹿児島県歴史資料センター黎明館、以後「黎明館」と略)の制作は明治28(1895)年、大正3(1914)年に桜島の噴火で大隅半島と陸続きになる以前の時代を伝えている。

 【琉球御召舟之図】(鹿児島県市立美術館)は徳川家茂の将軍就任を祝う船団を描いたもの、居並ぶ大艦隊に圧倒された。

 西郷の関わる人物の相関図も展示されていた。そうそうたる面々に時代のスケールを感じる。

 【薩摩琵琶 銘 木枯】(個人)はシンプルな造形だが格調高い逸品、西郷が演奏を聴いたとも言われている。





第一章

 まず目に入ったのは【ペリー久里浜来航の図】(東京都江戸東京博物館)、作者はペリー艦隊の従軍画家ウィリアム・ハイネ、この名は開国150年の特集展覧会の時に知った。当時から早くも10年が経過した。

 【木砲】(京都・霊山歴史館)を見るのは今回が初めてだと思う。


 続いて、島津斉彬ゆかりの品々が目に入る。硝子玉や香水瓶が美しかった。

 【高輪御屋敷図(部分)】【薩摩藩芝屋敷絵図 上御屋敷総絵図面】は共に黎明館所蔵、江戸東京博物館の展覧会で見た江戸城の図面が思い起こされた。雄大なスケールに圧倒される。方向音痴の自分がタイムスリップして幕末の大名屋敷や城に行ったら、迷子になること必至である。

 【漂巽紀略】はジョン万次郎の漂流から帰国までの口述記録、鎖国下に日本に戻った万次郎は琉球から薩摩本土に送られ、斉彬は彼から藩士に造船技術等を学ばせた。

 【麒麟鳳凰図屏風】(宮崎・都城島津邸)は、伊藤若冲が描いた鳳凰図を思い出しながら鑑賞した。

 斉彬は18歳しか年齢差がない父・斉興と折り合いが悪く、藩主になったのは43歳の時、当時ならむしろ隠居してもおかしくない年齢だった。しっかり記録していなかったが、正式に家督相続したのはペリーが来航した1853年との説明書が会場内にあったような気がする。斉彬は父・斉興に先立って世を去った。この点も含めて、戦国武将・武田信玄と父・信虎と共通するものを感じる。


 華やかな天璋院ゆかりの品々には、やはり魅了される。これらの制作には西郷も尽力したのだろう。どれも素晴らしいが、【天璋院所用 貝合道具(黒塗桐鳳凰文蒔絵貝桶・貝桶台・合貝)】(江戸東京博物館)は絶品だった。



第二章 流転

 本章の展示から、西郷自身の人生に激動の時代が重なっていく。

 【愛加那宛 西郷隆盛書状】は唯一現存する愛加那宛の書状、日付は明治2(1869)年3月20日、並んで明治6(1873年1月18日)付の【西郷菊次郎宛 西郷隆盛書状】も展示されていた。所蔵は共に明治6(1873)年創業の鹿児島の企業・持留製油株式会社だった。愛加那の実家は奄美大島でもそれなりに有力だったようなので、この書状を見ながら、召還されなければ西郷は歴史にその名を残しはしなかったかもしれないが、現地でそれなりに平穏な人生を全うしていたかもしれないと感じた。

 菊次郎は後に明治政府の外交官、明治37(1904)年には京都市長になって三大事業(発電、疎水、市電設置)を推進し、昭和3(1928)年まで生きた。明治維新の時に10代の若者だった最後の元老・西園寺公望が没したのは父が生まれた昭和15(1940)年、紀元2600年で国中が湧き、大政翼賛会が発足した年だった。太平洋戦争の頃には江戸時代生まれの人がまだいたことが実感できた。

 【久光上洛当時守衛方姓名書】(黎明館)は島津久光に随行した藩士の名簿、寺田屋事件により京都より先に行かれなかった人物は朱書となっている。



第三章 飛翔

 エレベーターで移動する。

 入口正面に展示されているのは【禁門の変図屏風】、複製だが雄壮な六曲一隻、オリジナルは会津若松市所蔵とのことだった。

 【京都二本松薩摩屋敷絵図】(黎明館)では、近代日本の運命を左右する多くの策議がなされただろう。黎明館が所蔵する【大久保利通宛 西郷隆盛書状】【勝海舟宛 西郷隆盛書状】など時代の息吹を伝える展示が続いた。

 【新撰組英名録】(京都・霊山歴史館)は明治に入ってからまとめられた。

 【小松帯刀宛 西郷隆盛書状】(黎明館)にも注目した。近年とみに評価が高まっている小松帯刀(1835年~1870年)は一所持・杵付兼善の三男に生まれ、本名は清廉、同じ家格の小松家の養子となって27歳の若さで家老となった。坂本龍馬や小栗上野介と並んで、もう少し生きてほしかった人物である。

 【老中宛 レオン・ロッシュ書簡】(霊山博物館)は紋章入り便箋にフランス語で書かれている。封筒?の表書には「佛国全權 ミニストル レヲン ロセス 江戸ニ而 御老中様」と書かれていた。

 【栗本安芸守宛 フリュリ・エラール書簡】(霊山博物館)はパリ在住の銀行家で日本総領事をつとめたフルリヘラールが教師軍事派遣費の未納分を請求したもの、書簡中の「小栗上野介」が読めた。「栗本安芸守」とは外国奉行・勘定奉行・箱館奉行を歴任し、徳川慶喜の弟・昭武の欧州訪問にも随行した栗本鋤雲のこと、明治維新後は新政府には出仕せずジャーナリズム界で活躍した。


 名前を書き忘れてしまったが、久光の三男らの写真パネルも展示されていた。


 【御花畑絵図】(黎明館)が目に入る。ここは小松帯刀の京都の寓居の見取図、近衛家の別邸で準藩邸ともいうべき家老屋敷だった。最近では薩長同盟が結ばれたのはこの地であるとの説も出されている。

 次いで【薩摩藩伏見御屋敷惣絵図】(京都・城南宮寄託)、篤姫も立ち寄り、寺田屋事件後の龍馬がかくまわれた。

複製だが【討幕の密勅】(黎明館)が展示されていた。亡き恩師は書跡が全て同じであることなどから、これは憲法制定や議会の設置にあたって明治維新の権威を高めるために捏造されたもので、実際には密勅は出されていなかったとの説を提唱されていた。


 【大政奉還 下図】(東京・明治神宮)の現物は未だ見ていないが、書籍やテレビでは数えきれないほど見た。こちらも「実際には慶喜は大名を集めて公言はしていない」との情報に接した記憶がある。虚実は別として、現物は一度見ておきたいと思っている。

 【二条城二の丸御殿 黒書院二之間 桜花雉子図(部分)】は寛永3(1626)年の狩野尚信の作、重文に相応しい逸品、こちらは江戸博等で開催された過去の展覧会で見ているかもしれない。

 【書「誠」】(個人・茨木県立歴史館寄託)は大政奉還の年の慶喜の筆、雄渾な筆運びからはあふれる意欲が感じられる。

 展示は激動の時代の到来を伝えるものとなる。

 【イラストレイテッド・ロンドン・ニュース】(霊山歴史館)は1867年8月10日のもの、過去に他所で見た同紙は多分別の日のものだろう。

 【徳川治績年間紀事十五代徳川慶喜公】(霊山歴史館)は月岡芳年が描いている。

 【江戸開城談判 下図】(明治神宮)に並んで、勝海舟画賛【山岡鉄舟像】(京都・三ノ宮神社)が展示されていた。江戸城無血開城の影の功労者として、近年とみに鉄舟の評価は高まっている。この画は鉄舟が亡くなる直前に海舟が送ったもの、海舟が生まれた時の生家は門地はさほど高くなく経済的にも苦しかったが、武家に生まれれば各分野の相応の教養は身に着けたことを再確認した。

 幕末・維新期の江戸城の写真は、多分他所で見ていると思う。


 明治維新、そして戊辰戦争へと時は移り、西郷も関わった上野、会津、箱館での戦争に関する展示がされていた。

 変革期を生きる一人の人間の常として、西郷は一般庶民と同じ悲しみも経験した。【西郷吉二郎戦死の通達】(霊山歴史館)は弟の長岡での戦死を伝えるものである。

 会津の西郷から薩摩の西郷に宛てた【西郷頼母宛 西郷隆盛書状】(霊山歴史館)に注目、高校生時代に西郷頼母の名を知った時、「上野の西郷さんの親戚かな?」と思った記憶がある。周知のように頼母も隆盛と同様に、権力者ならではの苦労、家庭人としての悲しみを多く味わった。

 【五稜郭・弁天崎台場の降伏前図】(霊山歴史館)は大砲なども描かれた貴重な俯瞰図である。




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by nene_rui-morana | 2018-07-29 11:50 | 明治維新150年関係 | Comments(0)

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