よみがえれ!シーボルトの日本博物館 2

第4章 ようこそシーボルトの日本博物館へ

待望のコーナーに胸が高鳴る。※本章の展示の所蔵は全てMFK

シーボルトの日本コレクションの展覧会は、アムステルダム、ヴェルツブルク、ミュンヘンで開催された。彼自身はこれを、しばしば「日本博物館」と呼んでいる。

 スタートは、「アムステルダム日本資料展覧会」の展示の再現、参考になった木工木版画によるイラストも出展されていた。【花鳥図衝立】の他、燈篭、仏像、香炉などを展示、【僧形坐像】は小さいながら非常に写実的で、モデルがいたのではないかと思った。

続いて、工芸品、日用品、模型、人形、僧侶の肖像、地図、書籍、等々、次々と目に入ってくる。シーボルトが直に目にした当時の日本の様子が伝わってきて、興奮は最高潮に達した。シーボルトの関連年表も展示されていて、鳴滝塾を開いた時は28歳だったことを知った。





麦わら細工はテレビ番組で見て心惹かれ、特に期待していた展示、素朴な材料を精緻な作品に結集させた江戸の職人の技術には脱帽する。

【鳴門名所図藍板締製】は鳴海の名産品・藍絞り染を扱う商店の光景を染めて表しており、手拭いと思われる。現在につながるものがあり、徳島旅行も思い出された。

【料理屋図扇】には料理茶屋「会津屋」を中心とした川崎周辺の風俗風景を描かれている。

【職人尽図巻】の中では「筆結」「硯彫」に注目した。画面中央で遊ぶ子どもの姿が微笑ましい。

【梅に綬帯鳥図】【やくしや】は川原慶賀の作品、後年の作品の墨書によると彼の生年は1786(天明6)年、シーボルトより10歳年上で我が歌川国貞と同い年ということになる。移転前の渋谷で開催された「たばこと塩の博物館」の展覧会でその名を知り、俄然興味をそそられた絵師、当時の日本のありのままの姿を作品に残し後世に伝えた意義は極めて大きいと思う。残念ながら慶賀の晩年や没した年などについては判明していない。

 【蝦夷人狩猟図】にはアイヌの漁師が描かれている。シーボルトの蝦夷地に対する関心の深さがうかがえる。

【養老文振袖】を見て、あらためて、昔の日本人は小柄だったことを感じた。

【桜樹波蒔絵料紙箱】の後は、蒔絵や漆器の作品展示が続く。かなり高価と思われる食器類も含まれていた。大変美しい【花鳥螺鈿シガレット箱】【花鳥螺鈿嗅ぎ煙草入】は私好みの作品、伏彩色螺鈿というカラフルな技法が用いられており、長崎製と推察される。

【船形漆塗弁当箱】は、子どもの頃に一度だけ直に目に船形の寿司桶を思い出した。

【人物画帳】も川原慶賀の作品、様々な人物109人が描かれている。非常にリアルな描写で当時を知る貴重な史料、個人的には全身に刺青をした「川越人足」が印象に残った。

慶長大判や小判を描いた【金譜 全】にも注目した。現物の貨幣や、日本にはほとんど残っていない【銀札(二朱銀)】なども展示されていた。後者は外国人が長崎で使用できた会所札、自分はジャンルを問わず「刷り物」が好きで、藩札などにも興味をそそられるので、貴重なこの史料にも魅せられた。

 香道にも近年関心を寄せているので、【桐唐草蒔絵香道具】【花車蒔絵香割道具箱】も心に残る展示だった。

 一方で、外科治療道具や鍼などには医師シーボルトが感じられた。こちらも漆や螺鈿の上等な箱に入れられているものがあった。

 雄大な【武蔵国全図】は安政3(1856)年のもの、橋本玉蘭斎こと我が歌川(五雲亭)貞秀が画図を担当している。自分にとって忘れられない歴史上の人物2名がつながり、こちらも大いに感激した。この地図には下方に寺社名が書かれ、「足立郡」などの地名も見られるが、老眼の悲しさ、しっかり判読できず無念の涙?だった。

 本章の展示は本当にいくら見ても見飽きず、感激と興奮の連続だった。身近な日用品から高価な工芸品、さらには慶賀の貴重な作品まで、シーボルトの好奇心と慧眼の深さには脱帽あるのみ、外国人だからこそ目についた部分もあるのだろう。日本では失われたものもあり、これらを今日に伝えてくれた意義は計り知れず、心から感謝したい。医療用具や書籍・地図などのコレクションは、医師・学者ならではのもの、彼が生きた時代の息吹きも感じられた。

 最近では、シーボルト・コレクションをデジタル・アーカイブで閲覧可能とする計画が進められているという。



第5章

 事件で日本を追われ帰国した後、シーボルトは49歳で貴族の娘ヘレナ・ガーゲルンと結婚、彼女との間には三男二女が誕生した。長男アレクサンダーと次男ハインリッヒは日本に渡来し公使館等に勤務した。アレクサンダーはシーボルトの晩年、国元の父と頻繁に書簡を取り交わした。本章には最期の年にシーボルトが宛てた書簡が展示されている。

 大政奉還の前年の1866年10月18日、日本再訪問の思いを胸に抱いたまま、シーボルトはミュンヘンで波乱に満ちた生涯を終えた。終焉の場所となった自宅は第二次世界大戦末期に戦災に遭い、残念ながら現存していない。旧南墓地には後に東洋風の墓碑に肖像レリーフが取り付けられ、「強哉矯(まことに毅然たるかな彼の勇気)」の漢字3文字が刻まれている。

の漢字が刻まれている。

アレクサンダーは後に父のコレクションの目録の作成なども行っている。



[エビローグ]

 本章をまとめるにあたり、展覧会の図録の外、わずかだがシーボルトに関する書籍に目を通した。その中で注目した事実を付記しておきたい。

 シーボルトの次女マチルデ=アポロニヤの長男アレクサンダーは、明治末期、飛行船で有名なツェッペリン伯爵家の令嬢と結婚し、後にフォン・ブランデンシュタイン=ツェッペリン伯と称した。本展覧会の出展作品の所蔵フォン・ブランデンシュタイン=ツェッペリン家はこの血統から続くシーボルトの子孫である。今回、日本で本展覧会が実現した裏には、貴重なコレクションを散逸させず守り抜いたご子孫の多大な尽力があり、あらためて感謝の念にたえない。ミュンヘン五大陸博物館は、ギャラリー展示等を経てバイエルン政府に買い上げられたコレクションが幾多の変遷を経て2014年に改称されたものである。

 オランダ国立民族博物館にはオランダ商館長が江戸参府の折に発注しシーボルトが持ち帰ったとされる肉筆風俗画数点が伝わっており、署名はないが研究家からは葛飾北斎およびその工房の作品とみなされている。小林忠先生によると、これらの作品は国産の和紙ではなくオランダからもたらされた透かし入りの紙に描かれているとのことで、紙が渡され注文されたことが推察され、作者北斎の強い根拠となっているという。



[感想]

 初めてその名に接したのはいつなのか正確には覚えていないが、中学生の時に自分は確実にシーボルトを知っていた。彼が鎖国下での交渉国オランダではなくドイツ人だったことにかなり驚いた記憶がある。

 鳴滝塾のことやヨーロッパに数多くの動植物の標本を持ち帰ったことも知っていたが、彼の功績はさらにそれを上回ることを本展覧会で知った。展示会図録にも明記されているように、シーボルトの博物館構想は民族学という学問が組織化されつつあった当時にあっては画期的なものであり、その意義は極めて大きい。日本から持ち帰った数多くのコレクションを展示し、また書籍を刊行して、日本をヨーロッパに紹介してくれたことを、日本人として心底感謝している。シーボルトの活動は日本への関心を呼び起こす原動力となり、少し後のジャポニズムの先駆的な役割を果たしたと感じている。

 展覧会のチラシに書かれていた「日本人より、ニッポン好き。」という一文のとおり、シーボルトは日本という国を心から愛していたことを、多種多様なコレクションは伝えていた。 「間宮海峡」の命名も日本に対する思い入れを表している。もし最晩年の再来日が実現していたなら、おそらくは日本がシーボルト終焉の地となっていたように思う。

 本展覧会は、最近の自分が最も惹かれる19世紀という時代と、その時代を生きた親日外国人とを、肌で感じることができる、大変密度の濃い内容だった。これまでシーボルトという人物に対する関心は十人並みだったが、本展覧会を通じて好きな人物になった。

 なかなか時間も作れないが、今後彼の著作や伝記を読んで自分なりに勉強していきたいと思っている。

 ミュンヘンはロマンチック街道旅行の時に夕刻に到着し、翌朝には発ってしまい、ほとんど滞在していない。次回いつヨーロッパに行かれるのか、見通しもつかないが、彼の地でシーボルトの足跡と再度コレクションに触れる日がくることも切望してやまない。


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by nene_rui-morana | 2017-05-15 21:30 | 展覧会・美術展(日本編) | Comments(0)

趣味の史跡巡り、美術展鑑賞などで得た感激・思い出を形にして残すために、本ブログを立ち上げました。心に残る過去の旅行記や美術展見学記なども、逐次アップしていきたいと思います。


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