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噫横川国民学校

少し時間が経過してしまったが、3月9日(木)放映の「昭和の選択」で、井上有一氏(以下「有一」と敬称略させていただきます)の表記作品が取り上げられた。個人的に大きな感銘を受けたので、感想等を記したいと思う。


 20世紀を代表する前衛書道家・井上有一(1916年~1985年)の名を、恥ずかしながら私は今回初めて知った。その生涯と偉大な業績については関連書等が多く出版されているので、ここには詳しく記す必要はない。

 【噫横川国民学校】は有一晩年の代表作、1978年に発表された。現在は群馬県立近代美術館が所蔵している。

 舞台は、昭和20(1945)年3月10日、当時の東京市本所区にあった横川国民学校、現在の住居表示は墨田区東駒形四丁目、東京スカイツリーに程近く、現地に今もある横川小学校では地元の学童が学んでいる。

 当時教師だった有一は前夜より宿直として校内に詰めていた。そこで、太平洋戦争下、特に甚大な被害がもたらされた戦禍に遭遇することになる。





 東京大空襲については、作家・早乙女勝元氏の著作の他、多くの書籍・研究書・体験者の回想録などが刊行されている。自分の両親は共に東京下町の出身で、両方の祖父母が空襲で焼け出されている。幼少期から決して多くはないが空襲や戦中戦後のことを聞かされて育った。10代になって近くの図書館で早乙女氏の監修書に掲載された空襲犠牲者の写真を見た時の衝撃は並々ならぬものがあった。

 空気がカラカラに乾燥し強風吹きすさぶ3月、雨あられのように投下された焼夷弾がどのような現実をもたらしたのか、想像にかたくない。一夜にして10万の人命が失われたといわれ、その多くは非戦闘員だった。地上から低空飛行のB29パイロットの顔が見えたと、高校の先生の一人から聞いた記憶がある。

 大学時代、ゼミの時間に「3月10日は陸軍記念日で、戦意をそぐために大規模空襲がこの日に行われた。」と亡き恩師から学んだ。最近では各所で、国民学校卒業式のため疎開先から東京に戻っていた小学6年生がこの日数多く犠牲なったことが報じられている。

国が強いた消火活動や、当時のマニュアルにあったであろう学校への避難が、悲劇を拡大させた。最後まで消火活動にあたった人は逃げ遅れ、学校の校庭や鉄筋校舎に避難した人に猛火が襲いかかった。

横川国民学校があった本所区南部や隣接する深川区は、特に東京大空襲の大きな被害を受けた。

もともとは画家志望だった有一は、当日のことをイラスト入りで【夢幻録 草稿 敗戦記】にも残している。避難民でごったがえした校舎や校庭が猛火に包まれた中、倉庫から出た瞬間失神した有一は、数時間人工呼吸を施され、一命をとりとめた。意識を取り戻した有一の目前に広がるのは想像を絶するこの世の地獄、ここで1000人の命が失われた。これと同じ光景を、やはり下町にいて辛くも生き延びた私の祖父母も目にした。祖父母が孫に語る経験談は控えめで淡々としていた。有一がこの体験を一作品と成すまでには、33年の歳月を要した。

【噫横川国民学校】は有一の死後、ニューヨークのグッテンハイム美術館で展示されて大きな反響を呼び、空襲50年目の1995年には墨田区役所リバーサイドホールでも公開された。私自身はまだ現物を見ていない。群馬に旅行したことがあるが、現地で見た記憶はない。

今回、テレビ番組はリアルタイムでは無理で、録画したものを多忙な年度末に合間をぬって見た。受けた衝撃は尋常ではなく、撮りためた他のテレビ番組、やるべきことはたくさんあるが、作品を紹介するシーンは何度も繰り返し見直した。その後に地元の図書館で有一に関する書籍を借りて読んだ。本稿をまとめるにあたり、再び番組を見直した。

荒々しい筆使い、墨はね、消しこみ、作品に、空襲と翌朝の惨状が重なる。降り注ぐ焼夷弾、燃えさかる炎、一面焦土と化し煙くすぶる中に散乱する瓦礫と犠牲者、自身がその場にいるような錯覚さえ覚えた。文字のいくつかは犠牲者の遺体を思わせる。断末魔の叫びも伝わってくるような気がした。

松重豊氏の重厚な声による朗詠は、殊更に心に響いた。後半近く「生焼女人全裸腹裂胎児露出 悲惨極此」の一節は、胸に迫り、忘れることができない。

【噫横川国民学校】は、20世紀を代表する書であると同時に、空襲体験記、時代の記録、魂の叫びでもある。テレビ番組のゲストが述べていたように、写経に通じる鎮魂の祈りでもあると思う。

当日の状況にあっては、文末に自らしたためたように、有一の生還は奇跡以外のなにものでもない。自分には、天が空襲の現実を後世に伝えるため、画家志望で文才もあった駆け出しの書家・有一を生かしたのだと思えてならない。


番組ではまた、空襲前の一時帰省で現実を目の当たりにした有一が、6年生をこの状況下、東京に引き揚げさせることに危機感を覚えていたことにも触れられていた。当然ながら、戦時下にあっては20代の一教師の願いなど叶うわけはない。米軍機は空襲を予告するビラをまいたが、「学校ではあの紙には毒が塗ってあるからさわってはいけないと言われた。」と母は語っている。結果もたらされた取り返しのつかない悲劇、横川国民学校の犠牲者の中には、有一が疎開先の千葉県富里村から連れ帰ってきた6年生児童8人も含まれていた。

 祖父母と共通する有一の空襲体験と共に、このエピソードもまた、自分の心には深く響いた。

 戦中戦後を生きた先人には比較すべくもないが、私はこれまでの人生で、多くの不条理を経験してきた。小学生時代に始まり、組織や団体の中で、数多くの理不尽を経験してきた。後にも先にも自分だけが経験した苦労は数知れない。教師など周囲の大人・組織で目上の人間に命令され、実はそれは間違っていて結果もたらされた自身には直接責任のない不始末の尻拭いも再三に渡ってさせられてきた。

 特に大きなものは、現在の職業に就いて最初に配属された部署、当時手がけていた事業は全く前例がなく指導してくれる人もおらず、暗中模索で連日深夜まで職場に拘束された。日が経つにつれ、これは組織やそれに関わる人々にとって有益な事業なのか、次第に疑問を抱くようになった。就任前の理想とも程遠かったため、他課への異動を望むようにもなった。しかし、わずかでもそれを言葉や態度に出すと係内から「社会人としての自覚に欠ける。」と叱責された。実際は自分の直感は間違ってはおらず、事業は他課から強い反対や疑問を投げかけられていた。かなり悪いこともしていたので、先輩職員や上司は他課と関わる内容を徹底して自分に丸投げした。結果、様々な言われなき汚名を着せられた。上司が取り込み中に他課から「至急折り返し返答を」と受けた電話を伝えかけたところ「今話しかけるな。」と遮られそのまま帰宅、結果は自分が伝言を怠ったとみなされたことなどは、ほんの一例に過ぎない。それ以外でも、彼らの指示のとおり動き、所用で他課に出向くと露骨に嫌悪感を示された。

 結局この事業は、莫大な経費を投入し、ほとんど実績を残せないまま、雲散霧消した。前線で動かされた自分は、頓挫した事業を企画した張本人とみなされて激しく糾弾され続け、係を変わった後も、重要な情報を故意に伝えられないなど数々の嫌がらせを受けた。四半世紀以上が経過した今も後遺症は続いている。上の役職への道は事実上断たれ、同期の中での収入は順位は下から数えた方が早い。

 自身の意志に反して組織への服従を余儀なくされ、結果もたらされた取り返しのつかない現実、失ったものが小さくない自分は、学校と組織の同期の中では有一の無念が最も理解できると自負できる。


 戦争が発生した時、もっとも被害を受けるのは、善良な一般市民である。20世紀は大量殺戮の時代だった。

 断じて同じ悲劇を繰り返してはならないことを、【噫横川国民学校】は訴えている。

 戦勝国敗戦国といった柵を超え、近代以降の戦争に関わった全ての国に、【噫横川国民学校】は翻訳されて伝えられることに意義があると、自分は感じる。

 悲劇の舞台となった墨田区内では、しかるべき公共施設内にレプリカを常設展示し、空襲の記憶を末永く後世に伝えてほしい。


 2017年4月17日、太平洋戦争末期に祖母に背負われて空襲下を逃げた父の命日、井上有一氏と、祖父母を含めた全ての空襲体験者の尊き命に、つつしんで本記を捧げる。


Commented by たかはし at 2019-10-15 11:05 x
初めまして。井上有一と横川国民学校についての記事を探していてこちらのブログを見つけました。私の家は神田五軒町にありましたが東京大空襲で焼かれ、幸い家族に犠牲者は出ませんでしたが、その後のわが家の運命は一変しました。広島・長崎に匹敵する犠牲者が出ているのに人々の注目度がやや低いかに思われるのが残念です。他の記事もこれから拝見しようと思っています。
私も「エッセイと写真」というブログをやっています。よろしかったらご覧ください。
by nene_rui-morana | 2017-04-17 08:15 | 東京スカイツリーの町から | Comments(1)

趣味の史跡巡り、美術展鑑賞などで得た感激・思い出を形にして残すために、本ブログを立ち上げました。心に残る過去の旅行記や美術展見学記なども、逐次アップしていきたいと思います。

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