真田丸

[副 題] 2016年NHK大河ドラマ特別展

[会 期] 2016年4月29日(金祝)~6月19日(日)


[会 場] 江戸東京博物館


 ここ数年、江戸博恒例となっているその年の大河ドラマ特別展には、欠かさず足を運んでいる。表記展覧会も告知後直ちに日程を調整した。

 真田幸村の名はもちろん、ドラマや人形劇などにより小学生の頃から知っていたが、知識や関心は世間一般並み、かなり以前に「幸村は本名ではない。」という記述を目にしたが諱が「信繁」だと知ったのは当館で開催された『大関ヶ原展』の時だった。

 よって当日は、あらたな学習をする気持ちで会場入りした。 ※ ()内は所蔵元、無記入は個人所蔵です。


プロローグ「日の本一の兵」

 展示室でまず目に入ったのが【革製六連銭紋旗指物】、老眼が進む自分には双眼鏡でかろうじて六連銭が確認できた。
 【六連銭紋馬印 真田信繁所蔵】(京都府・高津古文化会館)もその名のとおり六連銭がデザインされていた。当然ながら本会場ではこのロゴを多く目にすることになる。


  1. 「武田と真田」

 本稿を執筆している時点で大河ドラマ『真田丸』は既に最終回を放映されているので、武田と真田との関係はあらためて述べるまでもないだろう。

 威風堂々たる【川中島合戦図屏風】(岩国美術館)は見応え充分、自分にはよく識別できなかったが、右上山中を行軍する別動隊に黒地に白く染め抜いた六連銭の旗指物が見えるという。信繁の祖父・幸綱はこの軍に、父・昌幸は信玄の近侍に加わっていたといわれる。

 武田家は信玄の死後10年ほどで、後継者・勝頼の代に滅亡した。【武田勝頼・同夫人・信勝画像】(高野山持明院)の勝頼像は多くのところで引用されるが、ファミリーポートレート?であることは知らなかった。この夫人は北条家出身の若い後妻で信勝の生母ではない。山岡荘八氏の『徳川家康』では、苦労知らずの姫君だったが最期まで夫に仕え名門出身らしい立派な最期を遂げた女性としてえがかれている。本章には他にも武田関係の史料が何点も展示されていた。勝頼が昌幸に宛てた【武田勝頼書状 真田喜兵衛尉】(長野市立博物館)の花押には見覚えがある。【武田軍使用長槍】(上田市立博物館)の前では「長い!」の声があがっていた。使いこなすには相当の技術が要っただろう。

 【真田昌幸画像】(高野山蓮華定院)は今年テレビで幾度となく放映された。自分も本展覧会見学前に既に知っていたが、予想したよりはるかに小さな作品だった。かなりの老人の容貌のため、信繁の父ではなく93歳まで生きた兄・信之ではないとかいう説もあるらしい。





第2章 「第一次上田合戦から小田原合戦」

 本章は、真田の名を天下にとどろかせることとなった合戦の展示、豊臣秀吉や徳川家康の他、豊臣秀次や前田利家・直江兼続らも登場する。昌幸は武田家で培った兵法を駆使して圧倒的な兵力で攻めてきた徳川軍を破った。その後に信繁は秀吉のもとに人質として送られ、天正18(1590)年の小田原落城をもって天下は秀吉のものとなった。

 【刺繍種子阿弥陀三尊】(長野県・大輪寺)は、阿弥陀三尊を示す種子(梵字)の部分に女性のものと思われる毛髪が糸と共に刺繍されていて、主は信繁兄弟の生母・山手殿ではないかともいわれている。

 【鉄黒漆塗紺糸威勢異製最上胴具足】(新潟県立歴史博物館)は、若き信繁が人質となっていた上杉景勝所用とも伝わる。これを見る限り、景勝はスリムな体格だったらしく、周囲から「痩せすぎ!」の声が聞こえた。

 家康から屋代左衛門尉(昌幸を裏切り返り討ちにされたとされる室賀正武の弟)に宛てた書状が続く。判物は家康自筆といわれる。(書状は全て千曲市教育委員会)

 そしていよいよ、現存する信繁最古の書状が登場する。【弁(信繁)知行宛行状 諏訪久三宛】、日付は第一次上田合戦直前の天正13(1585)年6月28日、信繫の生年はまだ正確には分かっていないが、この時は16から19歳の間くらいだったと推察される。

 上田市立博物館が所蔵する【天正年間上田古図】【城下囲村図】は江戸後期のものだが、昌幸や信繁の時代がうかがえる。



第3章 「関ヶ原合戦と真田」

 最初に目に入ったのは【上田城出土瓦】(上田市立博物館)には、わずかに金箔が残っているそうだが判別できなかった。

【元和年間上田城之図真田家御事跡稿 付図「小県郡上田城之図」】(長野県立歴史館)は、関ヶ原後に破却された上田城の往年の姿をしのぶ貴重な史料である。

 前田幹雄氏が昭和55(1980)年に描いた【石田三成画像】も展示されていた。現在に伝わる三成像は陰険でずる賢いような印象を受けるが、大徳寺の墓所の頭骨から復元された三成の容貌は眼が大きく精悍でなかなかのイケメン、前田氏はこれを参考に描かれたのかもしれない。

 【直江状】(新潟県立歴史博物館)【内府ちがいの条々】(大阪歴史博物館)は、『大関ヶ原展』の時あたりにも見ているかもしれない。他にも、関ヶ原に関する書状が多数展示されていた。【伊達政宗書状 末吉勘兵衛利方宛】も出展されていた。

 徳川時代に書かれた新井白石の【藩翰譜】なども展示、榊原忠次が編纂した【御当家紀年録草稿】(上越市公文書センター)には加除訂正の朱書きが残り、成立事情をうかがえる重要な史料である。

 展示室の一角に関連年表が展示されていて、信繁と彼に関わった人物の生涯、同時代の事件などが解説されていた。兄の真田信之は関ヶ原以降、50年以上も生き、万治元(1658)年に93歳の長寿を全うした。彼は大坂の陣には病気を理由に参戦していないが、仮病という説がある。その後の長い人生をみると、信憑性を感じる。長く生きればそれだけ苦しみや悲しみも多く経験することになる。彼は生きた時代の定めにより弟との敵対を余儀なくされてその非業の死を目の当たりにし、両親や妻の他に息子たちにも先立たれ、隠居したのは死の2年前だった。


第4章 「真田家と桃山文化」

 勇猛果敢な武家のイメージが強い真田家ではあるが、華やかな桃山時代にあっては当然にその文化も吸収した。

 【鶴亀文懸鏡】(大宰府天満宮)は信繁の岳父・大谷吉継が献納したもので、福岡県指定文化財、吉継の娘・竹林院は文禄3(1594)年頃に信繁に嫁いだといわれ、関ヶ原の翌年に大助を産んでいる。吉継の享年は30代半ばから40歳くらいの間といわれている。もちろん当時としては可能性は十分にありえるが、孫をもつには少々若すぎる気がしなくもない。個人的には信繁の妻は、娘は娘でも吉継の養女だったのではないかと思っている。

 長野県の真田宝物館が所蔵する真田新吉(信之長男)関係の展示が続く。茶入、香合、等々、真田の人々も当時の文化を流行をたしなんだことがうかがえる。

 信之の妻・小松姫所用の扇面や懐剣・宝珠・厨子なども出展されていた。タイトルがデザインにあしらわれた【梨子地立葵菊流水蒔絵膳部】(長野県・大英寺)はとても美しい。小松姫は徳川四天王の一人・本多忠勝の娘、立葵は本多家の家紋とのことだった。関ヶ原の時に沼田城に立てこもって敵方となった義父・昌幸を城内に入れなかったというエピソードは、勇猛な武将だった父の血を受け継いだ意志の強い戦国女性であったことを伝えている。彼女豊臣家滅亡の5年後に世を去っている。



第5章 「大坂冬の陣・夏の陣」

 コーナー最初には、昌幸や信繁の書状が続く。西軍についた両名は関ヶ原の後に九度山に幽閉され、昌幸は何年かの内には赦免されるだろうと思っていたらしいが、遂にそれは叶わず8年後に死去した。

 父の死後しばらくして豊臣秀頼からオファー?を受けた信繁は九度山を脱出して大坂城に入り、わずかな期間ながら大活躍をして徳川方を翻弄し、「日の本一の兵」として歴史に名を残すことになる。

 【豊臣期大阪図屏風】(大阪城天守閣)は複製だが豪華で華やか、城下の賑わいを伝えている。原本はオーストリアにある。この屏風を紹介した特集番組を以前テレビで見たが、複製であっても今回見られて大変嬉しい。第六扇に描かれている「極楽橋」と推察される橋が国内のどこかに現存していると報じていた。他に住吉大社も描かれている。

【大坂冬の陣配置図】(大阪城天守閣)は、徳川方の主力部隊が四天王寺付近に集結していたことを伝えている。

 展示されている配陣図の多くは江戸時代にかかれたものだか、それでもやはり大合戦の臨場感が伝わってくる。特に心に残ったのは、真田丸が描かれている【諸国古城之図 摂津真田丸】(広島県立中央図書館)と、夏の陣の合戦図で「大御所様」「尾張宰相様」の記載がみられる【天王寺表合戦諸備之図】、大阪の陣は信繁が歴史に名を刻んだ歴史的大事件だが、詳細と信繁の活躍および最期については昨年中に大河ドラマや関連番組が数多く伝えているので、あえてここに記す必要はない。

 展示史料の中には、淀殿や秀頼と運命を共にした木村重成や大野治長らの名もみられた。彼らや片桐且元は、山岡氏の作品等でも豊臣家滅亡に一因を担った有能とはいえない人物としてえがかれているが、実像はどうだったのだろうか。

 【大坂夏の陣図屏風】(大阪城天守閣)も複製だが、雄大で迫力ある自分好みの作品、どんなに見ても見飽きない。

【みしかよの物かたり(短夜の物語)】は摂津国平野で年寄をつとめた末吉増重が大坂の陣の光景を和歌混じりで書き留めた随想録、兵士たちによる略奪、一般市民の殺戮、戦中に生別死別した家族、先の大戦と共通する歴史の悲劇を伝えている。

なお真田丸は、冬の陣後に徳川方により破却されたといわれる一方で、軍事機密を漏らさないために信繁自身が徹底的に破壊したとする説もある。



エピローグ「信繁から幸村へ」

 真田信繁が活躍した期間は短く、史料も多くは残っていない。しかし、徳川家康を3度撃退し、切腹寸前にまで追いつめた武勲は後の世に長く語り継がれることになった。

 真田十勇士の人形劇やテレビドラマは自身も幼い時に見た記憶がある。

 小説や映画・ドラマ、また展示されているような錦絵の主人公として、近年はゲームの人気キャラクターとして、幸村こと真田信繁は多くの日本人の心の中に生き続けている。



[感想]

 真田幸村という戦国武城の名を知ったのは本稿中に述べたとおり子どもの頃に見た人形劇やテレビドラマ、最も詳しく接したのは中学時代に読んだ山岡荘八氏の『徳川家康』だった。関心・知識は十人並み、好感を抱いてはいるが大好きというほどではない。テレビや映画で演じるのは若いイケメンスターが相場だったので、山岡書で戦死した年齢が49歳(もう少し若かったという説もある)と知った時、ローティーンだった自分は「そんな年寄りだったの?!」と少々ショックを受けた記憶がある。

本展覧会は、しばらくお留守となっていた戦国時代の復習と、新たな知識・情報を得るために足を運んだ。その目的はおおむね達成できたと思う。信繁関係の多くの史料を見ながら良い勉強をさせていただいた。

 展示には、かつて旅行した信繁ゆかりの地がしばしば登場した。上田、新潟、大阪、小田原、高野山、等々、真田が目的の旅ではなかったが、会場内で過ぎ去りし日々を回顧した。特に大阪は、真田丸の跡地にこそ行っていないが、大坂城や四天王など複数の思い出の地があり、懐かしさもひとしおだった。

 いささか残念だったのは、見に行った時期はまだ大河ドラマ放映序盤だったこと、番組を見た後の方がより印象に残ったと思う。本展覧会も展示替えがあったが二度足を運ぶことは出来なかった。東京での展覧会が終わった後には大阪に巡回したが、今の自分には宿泊を伴う遠出は許されない。

 番組後の史跡紹介を除いて大河ドラマを見なくなって久しいが、珍しく昨年は全編見た。できれば本稿は昨年中にアップしたかったが叶わず、2017年最初の記事となった。

 いつの日か、真田丸跡地の他ゆかりの地を訪れる日が来ることを願いつつ、学習を続けていきたい。


 


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by nene_rui-morana | 2017-01-08 18:00 | 展覧会・美術展(日本編) | Comments(0)

趣味の史跡巡り、美術展鑑賞などで得た感激・思い出を形にして残すために、本ブログを立ち上げました。心に残る過去の旅行記や美術展見学記なども、逐次アップしていきたいと思います。


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