ドラッカー・コレクション 珠玉の水墨画 

 標記展覧会は自分にとっては多くのものを思わせ、また思い出させるものだった。

 感想をまとめるまでに一年近くの時間が経過してしまったが、この間に他所で、標記展覧会に関連した経験もした。

 今回はそのようなことを少しまとめてみようと思う。





 まずは、自身の若き日に出会った方の思い出から記したい。

 その方は、高校2年生の時に数学の指導をしていただいた0先生、その年に某国立大学を卒業されたピカピカの新任?だった。絵にかいたような熱血教師で、授業中私語が飛び交う席にはチョークが飛んでくるようなこともあったが、授業は非常に熱心で分かり易かった。かなりの量の宿題を出され、3分の1程度しかやらないで提出したら、白紙の部分に赤字でびっしり解答が書かれて戻された。この時は、50人クラス全員にこれをしたのか、前回の授業から何時間寝たのかと、絶句・脱帽した。

 自分は算数は比較的得意だったが中学入学と同時に数学コンプレックスとなり、いい先生にあたった年もあったがなかなか成績は向上せず、それが大学受験まで尾を引いてしまった。もし中学1年生の時に0先生のような指導を受けていたなら、人生は多少変わったかもしれない。

 数学嫌いの自分だったが、0先生が受け持たれた授業だけは熱心に取り組んで、まずまずの成績をおさめた。

 その0先生がある日、授業の時間をさいて、開催中のある画家の展覧会について、「彼は天才、彼の作品は本当に素晴らしい。今開催されている展覧会をぜひ見に行ってほしい。」と熱く語られた。先生が学生たちに作品を見るように勧めた画家こそ、放浪の天才絵師・山下清だった。

 当時の私は、山下の名前と簡単なプロフィールは知っていたが、それ以上の知識も関心もなかった。また当時の我が家は経済的に非常に苦しく、アルバイトこそしてしなかったが、部活動がある日以外の放課後や休日は専ら家業や家事の手伝いに費やされた。先生に熱心に勧められた展覧会が開催されていたデパートは少々遠く、交通費も時間もその時の自分には余裕がなかった。何よりも、学識も人生経験も乏しい高校生に山下作品の真髄が分かるわけもなく、「自分には大して関係ない。」といった感じてさほど気にとめず過ぎてしまった。

 その後の幾多の経験を経て、当然ながら山下清は自分の中で不動の地位を占める芸術家となった。あらためて思い起こすと、テレビ番組等では幾度となく山下作品には接したが、現物をこの目で見る機会にはほとんど恵まれていない。高校2年生のあの時、無理をしてでも0先生の薦めを勧めを受けて見に行けばよかったと、大いに後悔している。

 今回、経済学者ドラッカーが一見本業とは無縁と思える日本の美術を愛していたことを知り、遥かなる昔のこの思い出が脳裏をよぎった。文系人間の自分が理数系科目が不得意であるように、理数系が得意な人が文学や歴史を好まない事実をしばしば見聞してきた。それ故になおさら、20代前半の若さで山下清作品の魅力に開眼されていた数学教師0先生の姿が展覧会場でドラッカーと重なった。最近は古文や歴史が高校の必修科目ではないので、この分野を好まないまま大学を卒業し、自分の父の世代なら常識的に知っていたことを知らず自国の芸術にも関心を寄せない若者が増えているのは、はなはだ寂しい。だからこそ、ドラッカーや0先生のような存在は自分にとっては非常に嬉しい。

 0先生とは大学在学時の教育実習を最後にお会いしていない。0先生より一年先に就任され、自分が所属した史学部の顧問をつとめられたK先生は、現在は校長になっておられる。かつてご指導を受けた先生方の大半は既に退職されているが、現在の母校はどうなっているのか、久々に思いを寄せた。


 ドラッカーが生涯に渡って深く関わることになった日本美術との最初の出会いが、にわか雨のため偶然入った建物内で開催されていた展覧会だったことも、自身の経験と共通するものがあった。自分も、その後の人生を左右するほど大きな意味を占めることになった偶然の出会いを複数経験している。歴史に最初に関心を寄せたのは児童館での百人一首遊びや小学生時代に見た大河ドラマがきっかけだった。自宅で受験勉強をしている時に見た社交ダンスの競技会の番組に強く惹かれ、進学した大学にサークルがあったので迷わず入部、大して上達はしなかったが数年前に足腰の具合が悪化して断念するまで長く趣味として続けた。松本を旅行した際に立ち寄った「日本浮世絵博物館」で判じ絵の存在を知り、もともと好きだった浮世絵へと傾倒を一気に強めることになった。名古屋から岐阜へと旅行した時、昼食を食べた喫茶店で割引券を入手し、少し時間があるという理由で足を運んだ美濃彫の展覧会で、日本の伝統工芸の魅力に開眼した。

 比較的最近のことでは、ギリシャで発見された写楽の肉筆画の展覧会での国貞作品との出会い、小林忠先生が世紀の発見をされなければ今の私は未だ国貞の魅力に気づいていなかったかもしれない。この展覧会自体も、意欲を持って計画を立てて足を運んだ他の展覧会とは違い、「会場も近いし話題になっているから見ておこうか。」程度のノリだった。まさに、神様のお導きがあったとしか思えない。

 大学者ドラッカーと比較すべくもないが、凡人の自分も偶然の出会いから数多くの人生の幸福を得た。しかし一方で、運命のいたずらで自分だけ被った苦労や不運が甚だ多かったことも併せて記したい。前例がなく後にもつながらない手のかかる仕事に数多く携わった。たまたま自分が担当の時に消費税が導入されたりシステムが変わったりした。このような苦労を重ねているからこそ、偶然の出会いがもたらしてくれた感動も、それに対する愛情や情熱も、誰にも負けないほど強いと言いきる自信がある。


 なお、近年は、今回のドラッカーのような外国籍の日本美術愛好家の存在がしばしば話題になる。そのコレクションの里帰り展も何度か開催されて大きな反響を呼んでいるが、数年前のテレビ番組でポーランドのアンジェイ・ワイダ監督のインタビュー映像を見たことを今回思い出した。日本でも高い評価を受けているワイダ監督は、第二次世界大戦中にレジスタンス運動に青春を捧げていた。明日の命の保証がない日々の中、これまた偶然目にした葛飾北斎の絵画に心を打たれ、力づけられたと語られていた。

 それぞれ分野は違うが、大戦を経験した二十世紀を代表する人物が、ある意味敵国だった日本の芸術を愛して下さったことは非常に嬉しく、そのような文化を育んできた母国を誇りに思う。優れた有識者は、政治的な壁と文化芸術とは別ものであるとみなしていることを今回再確認した。




 本展覧会の多彩な出展作品から、ドラッカーの慧眼に脱帽させられた。日本史の教科書にも掲載されている有名絵師も多いが、収集時の日本ではほとんど一般には注目されていなかったであろう伊藤若冲なども網羅されている。若冲や鈴木其一の作品は、むしろ外国人の感性に訴えるものがあり、今の日本がそれに近づいてきたのかもしれない。


見学から記事のアップまで一年近い時間が経ってしまったが、この間に足を運んだ他の展覧会等でドラッカー・コレクションにつながる出会いを経験した。


最大のものは、会場でその作品に注目し作者名を記載した久隅守景、ほどなくサントリー美術館で守景の展覧会が開催され、ドラッカー・コレクションと日本史の教科書で知った【納涼図屏風】と守景とが自分の中でようやくつながった。守景の娘・清原雪信の作品も出展されていた。


 守景をはじめ、今はあまり日本では注目されていないドラッカー・コレクションの作者が、若冲のように再評価されることを願ってやまない。



 近年は著名な在外コレクションの御里帰り展覧会が目白押しで、自分はいい時代を生きていると天に感謝している。


 一方で、非常に乱暴な言い方だが、戦後のドッジ・ラインは「昭和の廃仏毀釈」をもたらしたと感じる時もある。今日国内にあれば国宝や重文に指定されたかもしれない至宝の数々が外国のコレクターの手元にある大きな理由が、敗戦とその後に定められた「1ドル=360円」という為替レートにあったのは疑いのない事実である。


 ただし自分は、ドラッカーや、ジョン・プライス御夫妻、ロバート・ファインバーグ御夫妻、カート・ギッター御夫妻など戦後の外国コレクター諸氏には、心底感謝と敬意を捧げている。日本人が気づく以前に日本美術の真髄を見出し、愛し、大切にして下さっていることには、感謝してやまない。自国の文化や芸術などを愛して下さる外国人の存在は、日本人として本当に嬉しく感じる。


 むしろ、自国の芸術を正しく認識せず外国に永住?させてしまった、そうなる歴史的経緯を作ってしまった日本という国家を、つくづく残念に思う。


 現在は在外コレクションとなっている作品群が国内にあったなら、散逸せず今日正当な評価を受けていたか、何の保証もない。話題はずれるが、結果論だが蔣介石の最大の功績は、人類の至宝である故宮文物を台湾に持ち出して文化大革命から救ったことだと、個人的には思っている。


 とりとめのない内容を書き連ねてしまったが、標記展覧会は文句なしに素晴らしい内容だった。

 再会の日が訪れることを切望してやまない。




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by nene_rui-morana | 2016-05-16 12:44 | エピローグ | Comments(0)

趣味の史跡巡り、美術展鑑賞などで得た感激・思い出を形にして残すために、本ブログを立ち上げました。心に残る過去の旅行記や美術展見学記なども、逐次アップしていきたいと思います。


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