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フェリーチェ・ベアトの東洋 ①

[見学日] 2012年4月29日(日)

[会 場] 東京都写真美術館


 ここ数年恒例となっているGWの当館の古写真展覧会、今年も告知の時から楽しみにしていた。今回はフロアーレクシャーとあわせて見学することにして、4月29日の昼に恵比寿に行き、近くのレストランで昼食をとった後、会場に入って少し見学しながら開始を待った。
 午後2時にレクチャー開始(この時間は前後に別の場所に行くには少々中途半端、2時間早めるか遅らせるかしてほしかった)、解説員は昨年同様、当館学芸員の三井圭司氏、以下に見学と感想を三井氏の解説[M.]と併せて記したい。


 展示室に入ると、まずはベアトの年譜や彼の足跡を記した世界地図などが目に入った。幕末から明治初期の日本の写真を多数撮影したフェリーチェ・ベアトの名はよく知られているが、日本を離れた後の消息は長らく不明で、ごく最近没年と終焉の地がフィレンツェであることが判明したと某所で知った。
[M.]*年譜を見ながらベアトの生涯等を解説
 本展覧会は先ごろロサンゼルスのJ・ポール・ケネディ美術館で開催された展覧会の日本巡回展である。
 フェリーチェ・ベアトはベチネアで生まれ、コンスタンチノーブルを経て、クリミア戦争の写真を撮影した。義理の兄弟である写真家ジェームズ・ロバートソンと、兄アントニオと共に写真業に携わった。
 中国を渡り歩き、幕末の日本を訪れて多くの写真を撮影し、一方で様々な事業に投資し、かなりの成功をおさめた。そのまま写真業だけ続けていればよかったのかもしれないが、(結婚はしていないが)女性とお金が好きで、顧客リストや機材など資産のすべてを手放して銀取引に投資し失敗、全財産を失った(この事実は外国人居留区の新聞でも伝えられていると年譜に書かれていた)。
 その時、写真に関する最低限の機材や情報を手元に残しておけば、ベアト自身は写真術も経営手腕も交渉能力も備えていたので、やりなおすことは可能だったかもしれない。しかし顧客リストから何からすべて売却してしまって写真業を再建することはできなかった。


● 初期写真 1855-57
 最初のコーナーには、ベアトの他に先述のロバートソンの写真(あるいは彼との共同制作)も展示されていた。いずれも日本を訪れる前の、主にクリミア戦争を撮影した写真でもちろん初見、激動の19世紀を伝える展示に興味深く見入った。今回は各コーナーに解説シートも用意され、指南をしてくれた。

[M.]
  【凸角堡の内側、ロシアの砲台】【バラクラヴァ港の入り口】は戦地で撮影されたが、武器や兵士が写されておらず戦争観が感じられません。


● インド 1858-60
 <セポイの反乱>の時代のインドを撮影したこのコーナーの写真もおそらく自分初見、三井氏の言葉を借りれば<銃後の兵士の肖像写真>ということになる。他に建設写真も展示されていた。
 【カイゼルバーグ宮殿の大門―英国側軽歩兵師団とブレイジャー率いるシク教徒によって、1日で3千人のセポイがこの前庭で殺された[ラクナウ]】や【フサイナーバード・イマームバーラー宮殿とモハメッド・アリ・カーンの墓。1858年3月のサー・コリン・キャンベルによる2回目の攻撃[ラクナウ]】など、攻撃の爪痕も生々しい壮麗な宮殿の姿は、特に心に残った。
 シカンダルバーグ宮殿は、内部と外部が撮影されていた。
 【タージ・マハルの入口】やモスクのアラベスク模様など、150年前のインドの景観も自分の心に強く響いた。
[M.]
 【第93高地連隊と第4バンジャーブ連隊による2千人の反乱兵虐殺のシカンダルバーグ宮殿の内部。1857年11月のサー・コリン・キャンベルによる最初の攻撃[ラクナウ]】は、実際は1858年に撮影されたものです。当時の技術では戦跡写真の撮影は不可能だった。この作品に写されている累々たる屍は、前年に戦死した兵士の墓を暴き、遺体を並べて撮影したのではと思われます。これを現代の倫理観に置き換えるのは適切ではない、時代を伝えるものとして見ていかなければ。


● パノラマ
 ベアト作品の大きな魅力の一つがこのジャンル、そしていよいよ日本が被写体として登場する。壮麗でスケールの大きなパノラマ写真はやはり見応えがある。香港、江戸、横浜、ベナレス、ベアトは19世紀の各都市を撮影し、極めて貴重な史料を残してくれた。
[M.]
 1990年代の一時期、日本でもパノラマ写真が流行しましたが、長続きしませんでした。理由は明確、このサイズはアルバム保存に適さなかったからです。
 【香港のパノラマ、北中国遠征艦隊を俯瞰、1860年3月1日】はバナナ型をしていて形が整えられていません。単に面倒だったのか、あるいは下部の建物群を写す目的があったのでしょうか。*この作品の船の多さには驚かされた。
 ベアトはアンペールに随行して江戸を訪れました。【愛宕山から見た江戸のパノラマ】はその時に撮影されたもので、おそらく軍事目的だったのでしょう。5枚の写真をつなげたこの作品は、白壁が曲がってみえます。
 ベアトの日本写真は≪ILN≫にも掲載されました。


● 中国 1860
 舞台は中国、年代的には先の≪パノラマ≫のコーナーよりこちらが先行する。アヘン戦争後の激動の中国の姿を、ベアトの写真は生々しく伝えるが、その背景について三井氏は貴重な解説をしてくださった。
 このコーナーでも【紫禁城に通じる南門から撮影した北京のパノラマ】など壮麗なパノラマ写真に魅了された。天壇公園など今日でも人気の観光スポットを写した写真は、自身が北京を訪れた時の記憶と重ねながら見た。特に荒廃の様子が生々しい【焼かれた後の皇帝の夏の別荘、円明園(実際は離宮[円明園や清漪園][現頤和園])など、湖から撮影、1860年10月18日 北京】は特に印象に残った。また、当時の中国国内にモスクが存在し、タタール人が生活していたことは、自分にとっては新たな発見だった。
 【大連湾のパノラマ 1860年6月21日】も印象的な作品だが、写されている宿営や軍艦に戦時下であることが感じられた。
[M.]
 ベアトはアロー号事件(第二次アヘン戦争)をその目で見ました。クライアントはイギリス人、従って撮影は一面的で、【仏軍が侵入口とした大沽北砦の角 1860年8月21日】【大沽北砲台角の内側 1860年8月21日】に写されている累々たる屍はすべて中国人です。ニュートラルではありませんが、19世紀においてはこれが当然でした。*この2枚の写真からは自分も強いインパクトを受けた。
by nene_rui-morana | 2012-06-03 14:38 | 展示解説・フロアーレクチャー | Comments(0)

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