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酒井抱一と江戸琳派 ②

 酒井抱一という人物の生涯については比較的よく知られているが、専門家の解説により、より近しく感じることができた。

●酒井抱一は、姫路藩15万石の藩主・酒井忠以(宗雅)の弟として江戸藩邸で生まれた。名は忠因である。
 周知のように酒井家は、家康の時代から徳川家と関わりの深い由緒ある譜代大名、江戸中期に西国の抑えのために江戸から遠く離れた姫路に移封になった。
 抱一は、青年期の天明年間は狂歌に親しみ、≪尻焼猿人≫というペンネームで狂歌連にら参加する一方、絵画も学んだ。
 寛政年間に入り、松平定信の改革で狂歌等に規制がかけられると、実家の酒井家に迷惑が及ばないためもあり、出家して権大僧都となる。

●寛政9(1797)年、37歳の時、法名を与えられた御礼に京都に赴き、彼の地で円山派や琳派に触発される。当時は応挙が没してから2年後で、京都ではその画風が流行していた。

●名門の御曹司だった抱一はなかなか美男子で武芸にも秀でていたので、他家から養子の話もあったが断り、吉原の高級遊女を身請けして身の回りの世話をさせていた。実家の酒井家からは五千石の捨扶持が与えられていたといわれ、吉原は応接間に等しかった。実に羨ましい限りです。
 文化6(1809)年には、吉原に近い下根岸に転居、鶯の里にちなみ≪鶯邨≫と号した。
 私がもし生まれ変われるなら生まれ変わりたい江戸時代の絵師の筆頭は、この酒井抱一です。そう思う最大の理由は、この根岸の庵【雨華庵】です。後ほど弟子が描いた画をお見せしますが、実に素晴らしい居宅兼アトリエでした。

●文化12(1815)年には、有名な光琳百回忌法要がとりおこなわれ、光琳遺墨展が開催された。
 【風神雷神図屏風】は、一橋徳川家に伝わった光琳画を見て制作されたと思われる。【夏秋草図屏風】は光琳の【風神雷神図屏風】の裏絵で、出光美術館は大下絵も所有している。

●抱一が没したのは文政11年11月29日、西暦1828年、しかしオランダ商館長の記録と日本の記録が合わず、厳密に換算すると1829年となる。享年68歳、江戸時代では長寿といえる。私もいつの間にか抱一先生の没年をこえて喜寿を迎えました。学習院大学では教職員の定年は70歳、私が大学で教鞭をとるのは今年が最後です。


 上記の他に、抱一の弟子についての説明があった。田中抱二は署名が抱一と似ているので作品の鑑定が困難だという。鈴木其一は当初は≪噲々其一≫(かいかいきいつ)と号し、その後に≪菁々其一≫(せいせいきいつ)≫と名乗った。これは、宗達の号≪対菁≫ないし≪対菁軒≫、光琳の号≪菁々≫に由来しているという。
 また広重について、「近年では≪歌川広重≫と表記されますが、私は≪安藤広重≫でもいいと思います。広重は武家・安藤家の出身であることにこだわりを持っていましたから。」とも述べられた。


<MC>
 酒井抱一は自分にとっては特に思い入れのある絵師、その最高の芸術家について、当代最高の研究家のお話を聞く機会に恵まれたのは、大いなる喜びであり感激もひとしおだった。既に知っている内容もある一方、弟子関係などはこれまで読んだ研究書などでもそれほど詳しく触れられていなかったので、大いに触発され、抱一の知られざる一面に触れることができたと感じた。
by nene_rui-morana | 2011-08-14 21:50 | 酒井抱一生誕250年 | Comments(0)

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