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すみだの街角2「新収・初公開資料から見る近現代」

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[副 題] 区制施行70周年記念企画展


[見学日] 2018年1月10日(水)


[会 場] すみだ郷土文化資料館



 昨年は東京都23区制が施行されてから70年目ということで、10月下旬より、東京スカイツリーの御膝元、墨田区内で表記展覧会が開催された。年明け早々、会場近くに行く所用ができたので、立ち寄ることにした。

 あらためて気がついたが、大政奉還から50年目にロシア革命が勃発し、さらにその50年後の日本で新たな地方自治制度がスタートしたのである。

当日は近くの三囲神社をお参りしてから館に入った。

展示の所蔵・提供は、墨田区、東京都、および一般の方です



★すみだの人口に見る

何度か足を運んだ3階のこじんまりとした展示室、まず目に入ったのは【すみだの人口一覧】、明治15(1882)年には131,661人、昭和19(1944)年には438,114に達したが、翌年には戦争の影響で77,595人まで落ちた。


時代は移り、平成23(2011)には25万人を越え、28(2016)年は261,723人となっている。近年の墨田区はマンションや戸建て住宅の建設ラッシュが進み人口も増えているが、それでも戦前ピーク時より15万人以上も少ない。かつてはどれほど、多くの人でひしめいていたか、容易に想像できる。




 




★戦前の街角

 展示されていたのは墨堤の桜の絵葉書や、戦前の祭りの様子を撮影した写真、後者は昭和2(1927)年頃のもので、おそらく三囲神社の祭礼と思われる。4年前の関東大震災からの復興の熱気があふれている。東日本大震災から7年目の今見ると、やはり感じるものがある。



★敗戦 焦土からの復興

 都内で特に関東大震災の被害が大きかった墨田は、22年後に再び灰燼に帰した。昭和20年3月10日の東京大空襲では隣接する現在の江東区と共に、甚大な被害を被る。その後も空襲を受けて区内は瓦礫の山と化した。当時やはり東京の下町に住んでいた自分の祖父母も焼け出された。本章には祖父母や4歳数カ月の幼児だった父も見たであろう、空襲後の写真が展示されていた。

出展されていたのは、写真説明の地図の他、比較的被害が少なかった中和小学校から見た焼け跡の写真、この類の展示を見る度に祖父母の体験談を思い出し、決して再び戦争を繰り返してはならないと感じる。

なお、東京大空襲で三囲神社を含めた当館周辺は奇跡的に焼失を免れたが、近くの言問橋では多くの住民が犠牲となった。



★写真コンクールにみるすみだの街角

 祖父は終戦をはさんで3年の間に4人の身内を戦争や病気で亡くし、空襲で家も失った。多くの日本人が同様の経験をし、その過酷な現実を乗り越えて奇跡的な復興を果たした。

 展示されているのは高度成長期の日本の写真、墨田区内でも大規模な再開発工事や進められ、工場や鉄道、高速道路などが次々と建設されていった。

もちろん自分はこの時代のことは新聞やニュース映像・関連書籍でしか知らないが、展示からは日本全体が上昇気流にのり活気にあふれていたことがうかがえる。公害や環境破壊の深刻化など多くの矛盾が生じたのも事実だが、それでもやはり、高度成長期は良い時代だったと思う。日本全体に国を再興させるという希望と意欲にあふれ、国民は真面目かつ貪欲に邁進していった。最高学府を出ていなくても誠実に人生に取り組んでいれば努力が報われた。未来に希望が持てた。若い頃、この時代に働いていた人から「毎年順調に昇給し家のローンは10年で返済できた。」と聞かされた記憶がある。平成バブルとは異なる、一種の健全さが感じられる。



★すみだで働いた若者たち

 工場の町・墨田は間違いなく、高度成長期の日本を支えた。【中学就職者激励退会】が伝えるように、墨田で働いた金の卵も数多い。ちなみに、現在は化粧品メーカーとして知られているカネボウは元来は紡績業で、社名『鐘紡』は工場を構えた墨田区内の鐘ケ淵に因り、東武鉄道の駅名が残っている。自分は見ていないが、山田洋二監督の映画『下町の太陽』は、ひきふね川通り界隈やそこにあった資生堂の工場が舞台と聞いている。

 本コーナーには、やはり区内にあったミツワ石鹸の向島工場の写真や段ボール・配達箱なども展示されていた。

 時代は移り、上記いずれも現在はなくなっている。それ以外の大中小の工場も多くはマンションやコインパーキングその他に変わった。

 

★空から見た墨田区

 展示されているのは、昭和37年から平成25年に撮影された航空写真、定点観測により墨田区の変遷を如実に伝えている。



★すみだの街角

 ラストは、昭和30年前後から60年にかけて撮影された写真、神輿、素人芸能大会、商店街、公共インフラ、等々、戦後の歩みを物語っている。

 自分が注目したのは、【都営地下鉄工事現場】、写されている昭和34(1959)年当時の浅草通りには車が数台とリヤカー、道路沿いの建物は平屋かせいぜい2階建て、東京スカイツリーへの幹線道路となった現在と同じとは、にわかには信じられない。

 【江東青果市場 せり落とされた白菜】は現在の江戸東京博物館の昭和28年頃の姿、現在は「北斎通り」となっているかつての本所南割下水はかつては「八百市場(やっちゃば)通り」と呼ばれていた。

 同じ頃に撮影された墨堤通りには、当然ながらまだ首都高速は写されていない。



≪感想≫

 東京スカイツリーの御膝元、墨田の歴史には近年とみに興味をそそられている。

 今回は関連企画第3段とのことで、前の2回が見られなかったのは残念だったが、本展覧会でほぼ一世紀の歴史が体感でき、自分にとっては有意義な企画だった。

 今後もこの界隈に行く機会があれば、当館に足を運びたい。


by nene_rui-morana | 2018-01-29 20:20 | 東京スカイツリーの町から | Comments(0)

趣味の史跡巡り、美術展鑑賞などで得た感激・思い出を形にして残すために、本ブログを立ち上げました。心に残る過去の旅行記や美術展見学記なども、逐次アップしていきたいと思います。

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